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内なる異郷の音楽 -ライ・クーダーの魅惑
【金曜日は音楽の日】
自分のルーツを突き詰め、他者を積極に受け入れることで、エキゾチズムが醸成されることがあります
スライド・ギターの名手であるライ・クーダーが創りあげた音楽は、表面的な意匠にとどまらない、昔懐かしくも、見知らぬどこか遠くを想起させる、多様なエキゾチズムを持った音楽です。
ライ・クーダーは1947年アメリカ、ロサンゼルス生まれ。貧しい家庭でしたが、家にはいつも音楽が流れ、フォーク・ソングを聞いていたといいます。
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4歳の時、おもちゃの車を直そうとしてナイフで左眼を刺してしまい、義眼になることに。家にこもるライにギターが与えられ、彼は熱心に演奏して修業していくことになります。
ラジオでカントリー・ミュージックを聴いたり、ブルースのレコードを聴いて音楽を吸収。10代には実際にブルースマンのライブに行って彼らと仲良くなって、目の前で演奏してもらい、見ただけで弾き方を習得できるまでになっていました。
10代後半には既に天才ギタリスト、しかもバンジョーやマンドリンも弾けるということで一部では知られており、65年には後にソロとして大成するタジ・マハールらと共にライジング・サンズというバンドを結成。
これは売れずに翌年解散するものの、ギタリストとしての腕前は買われて、引っ張りだこのセッション・マンになります。特に彼の弾くボトルネック(ガラスや金属のバーをギターの弦の上で滑らせる奏法)の涼やかなスライド・ギターは、他にはほぼいないユニークなもので、曲にアクセントをつけたい時は、もってこいの存在でした。
(近年の公式スタジオライブ映像。冒頭と終盤で見事なスライドギター演奏が、アップで捉えられる)
1970年にリプリーズ・レコードからアルバム『ライ・クーダー』でソロデビュー。ここでは、古いブルースやフォーク・ソングを取り上げて、ストリングスも加え、ノスタルジアと新鮮な響きの同居する、不思議なフォーク・ロックになっていました。
72年のセカンド・アルバム『紫の峡谷』は、曲は古いフォーク・ソング中心のまま、装飾を削ぎ落とし、タイトでグルーヴィなバンドサウンドに、ライのドライヴの効いた艶やかなスライド・ギターが大々的にフィーチャーされた大名盤。ライの朴訥としたボーカルも私は好きです。
次の『流れ者の物語』もこのサウンドを突き詰めますが、4thアルバム『パラダイス・アンド・ランチ』辺りから、アメリカのフォーク・ソングにとどまらない異国情緒のようなものが出てきます。そして76年の5thアルバム『チキン・スキン・ミュージック』では、前人未到の音楽に。
テックス・メックス(メキシコ風味)音楽のアコーディオン奏者、フラーコ・ヒメネスと、ハワイアン・スラック・ギターという緩やかなギターを奏でるギャビー・パピヌイをゲストに、デューク・エリントンの曲やお馴染みの『スタンド・バイ・ミー』等のスタンダード曲が、鄙びたリラックスした響きで演奏される。
他の何にも似ていない、元祖「ワールド・ミュージック」となりました。
78年の『ジャズ』も驚くべき作品。いわゆる一般的なアドリブの飛び交う「ジャズ」ではなく、弦楽器のコンボが主体で、1920年代の古い曲がアレンジされた、瀟洒なサロン音楽になっています。
本人のライナーノーツによると、ジャズの歴史が辿らなかった、ありえたかもしれない音楽を考えたとのこと。
ジャズは当初ニューオリンズで生まれた、汎カリビアン音楽であり、それはかつて、タンゴやハバネラといったラテン音楽、クレオールたちのフランス風味のサロン音楽等、様々なごった煮の音楽でした。
そこから、管楽器主体でアドリブによってエキゾチズムを濾過する音楽になっていったわけですが、そうした方向でない、夾雑物が混ざった状態の「ジャズ」を再創造する試みであり、しかも全く頭でっかちでなくリラックスしたまま、全編が真珠のように輝いているのです。
もっとも、ライ本人はこのアルバムにあまり良い思い出がないとのこと。というのも、実はライは楽譜が読めない(聞いてすべてわかるから)のですが、いつもとは違う大掛かりな音楽のため、編曲者が必要であり、かなり制作には苦労したそうです。
しかし、その甲斐あってか、ライの作品の中でも一、二を争う美しい作品になったと私は思っています。
そして、ライの音楽を語るには映画音楽が欠かせません。何と言っても、85年のヴィム・ヴェンダース監督作品『パリ、テキサス』の音楽。
伝説のブルースマン、ブラインド・ウィリー・ジョンソンの曲を基に、アコースティックなスライド・ギターが、生々しい弦の音とともに、寂寞たる唸り声をあげる。
荒野の砂漠にも、孤独な夜の大都会にも合うその音楽は、私にとっては映画を超えた、人生のサントラです。
しかし、80年代から90年代初頭にかけては、ライにとって苦しい時代ではありました。元々彼のアルバムは売れず、映画音楽は生計を立てるためでもあり、ツアーもお金がかかるため、87年以降ソロアーティストを続けるのを諦めるという、厳しい状態でした。
ちなみに、この時期の日本では彼のアルバムや『パリ・テキサス』で知られていたこともあり、何とウイスキーのCMに出演して、渋いアコースティック・スライドギターを弾いたりしています。
そんなライが驚きの復活を遂げたのが、プロデュースにまわった1997年の『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』です。
1940年代のキューバの伝説的なミュージシャン達を集めた「ソン・クバーノ」と呼ばれる、ボレロからマンボまで幅広くカバーする、甘く滴る蜜のように豊かなラテン・ミュージックの玉手箱アルバムは、全世界でなんと800万枚を売る特大ヒット。彼らを追ったドキュメンタリー映画も大ヒットします。
この作品以降、ライも再びソロ・アルバムやコラボアルバムも定期的にリリースするようになります。2023年の『ゲット・オン・ボード』は、何と50年ぶりに盟友タジ・マハールと共演し、サリー・テリー&ブラウニー・マギーという、ライが10代の頃に衝撃を受けたブルース・デュオの曲を活き活きとカバーする、素晴らしい作品でした。
ライの音楽がこれ程の広がりを持っているのは、彼の操る「スライド・ギター」という楽器の存在が大きいように思えます。
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小指にボトルをはめて
スライドギターを奏でる
ガラスや金属のバーを指にはめ、ギターの弦の上を滑らせるその音は、ギターのフレットを超えて、西洋的な音階を逸脱するノイズと、サイケデリックな音の跳躍を引き出す。しかも、幼少期に、ギター1本で勝負するブルースマンの音楽を間近で吸収したからか、アコギ一本で強烈なグルーヴを引き出せる。
そうしたことも相まって、古い音楽や様々な国の音楽を取り込んでも、ライの場合、どこか異物のような感覚が挟まります。そして、彼が楽譜を読めないこともあり、耳で相手の音楽を感じて、そこにギターで寄り添うことで、相手の中から、表面的な音に隠れた、自分と共鳴する音楽を引き出せる。
インドの古典音楽家ヴィシュワ・モハン・バットとコラボした『ミーティング・バイ・ザ・リバー』では、ラーガ旋法に基づくインドの弦楽器にライの繊細なスライドが絡む、どこの音楽ともつかない、仄かに明るい、緩やかな大河のような音楽になっていました。
或いは『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』では、キューバのミュージシャンの音楽を忠実に捉えつつ、ライのものとすぐわかる、地を這うような重たいスライド・ギターの音色もオーバーダブし、音楽に深みを与えています。
ライ・クーダーの音楽は、ワールド・ミュージックでありながら、彼自身にしか作りえない独自の音楽であり、様々な音楽を吸収し、歪めることで、彼自身の内部にある、どことも特定できない異郷の音楽を奏でているようにも思えるのです。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。
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