【お題】赤いコートと銀色の指輪 ークリスマスの話
(※)この文章は、フィクションであり、実在の人物との関係はございません。
クリスマスも近づくと、寄り添って街を歩くカップルが増えてきますね。「クリスマスは恋人と過ごす日じゃない。外国では大切な家族と過ごす日!」と口では言ってみるものの、内心は、クリスマスまでに恋人が欲しい、と思っている(思っていた)方も、いらっしゃるのではないでしょうか。
確かに本来クリスマスは、恋人と一緒に過ごす理由なんてありません。でも、やっぱり、恋人のように、本当に自分が一緒にいたい人と、クリスマスという特別な理由をつけて一緒に過ごすことは、とても良いことのように思えます。そして私は、そういうカップルを街で見るのは好きです。
私がそんな風に思うきっかけになった出来事を、お話ししましょう。といっても、艶っぽい話ではありませんよ。
私はその時男子高校生。当時の私は、古典文学やら芸術映画やら西洋絵画やら、芸術を愛し、吸収することに無上の喜びを感じる、芸術かぶれのオタクでした(今もですね)。同世代の人と共通の話題もなく、当然それまで、恋人なんてできたことはありませんでした。
クラスでは、いじめられてはいませんでしたが、周囲は「なんかよく分からないから、とりあえず触れないでおこう」といった風で、談笑したり、一緒にイベントを過ごしたりする友達もいません。でも、自分には人類の至高の芸術がある、と思い込んでいるから、別に気にしていませんでした。
ある日、映画上映や美術館の情報をチェックしていると、私の好きなフランス映画の上映があることを知りました。上映日時はクリスマスの夜。恋愛映画の傑作なのですが、マイナーなため、ソフトも配信もありません。その上映場所も、商用映画館ではなく、専門学校のホールのような、いわゆるシネクラブでした。既に2回見ていますが、迷うことなく、25日の夜はそこに行くことを決めました。
25日当日、所用があり、学校の校門を出て時計を見ると、上映開始には少し遅れそうです。といっても、ストーリーはもう覚えているので、焦らずに行くことにしました。辺りに薄闇が立ち込める中、小さな会場に着いて、受付でお金を払って中に入ると、もう既にオープニングは終わって本編が始まっていました。
ここで、少し困ったことに気づきました。この映画は、開始から数分程、主人公の男が部屋に一人でいる場面が続きます。それが殆ど照明のない、ほぼ真っ暗な画面なのです。しかも、ここは映画館でないため、フットライトもありません。そんな条件が重なって、眼の前50センチ先が見えなくなるほどの暗闇になっていました。しかし、扉の外は宵時で既に煌々と明かりが灯っています。入った手前、受付の人を呼ぶのも、何となく憚られます。私は暗闇の中を、席まで歩いていくことに決めました。
ホール一番後ろのドアから、スクリーンに向かって歩くに連れ、少し慣れてきたように思えます。スクリーンが普通の映画館より小さいため、なるべく前の方で観たい。椅子の辺りに手を泳がせつつ、足音を立てないように摺り足で、上手く段差を降りていきます。なかなかいい塩梅だと、何故か得意になっていた、その刹那。
柔らかい何かが指先に触れました。
驚いて左手の先に目線を泳がせると、丁度、映画の中の男の部屋に恋人の女性が入ってきて、辺りがほんの少し明るくなりました。すると、暗闇の中から、椅子の肘掛けにのったふっくらとした白い手と、薬指に輝く銀色の指輪、そして、女性の膝に置かれた真っ赤なコートが浮かび上がったのです。
突き刺さるようなコートの赤と、きらめきを宿した指の白さに、私は思わず息を呑みました。しかし、画面はすぐに暗い情景に戻り、コートと手も闇に沈みます。私は慌てて、女性の前の席に腰をおろしました。
心臓が早鐘を打ちます。私が触れたのは、女性の手だったのです。本当に一瞬だったので、女性の顔までは見えませんでした。どうしよう、上映後に謝ろうか、いや、ほんの少し触っただけだから、そんなことをしたらかえって不審に思われる。いや、少しでも触れていたら、それは失礼だろう…。女の子と大して話したこともないので、どう考えていいか分からず、結論の出ない問いが頭の中を駆け巡ります。そのくせ、大人の女の人の手って、手の甲なのにあんなに柔らかくて暖かいんだ、と思う程度には、のんきな男子高校生でした。
全く画面に集中することが出来ず、上映は終わりました。後ろを振り向けないまま、背中に神経を集中していると、女性の隣から「いい映画だったね」という男性の低い声が聞こえ、二人は立ち上がってホールを出ていきました。私は少しそのまま、呆然と座っていましたが、立ち上がり、ふらふらと出口に向かいました。
ホールの外は既に夜になっていました。受付にいた女性が、観客の何人かと談笑しています。受付から少しはなれた場所にある、いくつかの映画のチラシが入った棚の前に、あのートを羽織った女性は立っていました。
その女性は小柄で、赤いコートから黒のストッキングとローファーが見えました。腰まである亜麻色の髪が柔らかく波打っています。卵型の顔と陶器のような肌の上に、形のいい唇と丸い瞳、愛らしい困り眉がのっています。化粧の薄い白い肌に、コートの赤が反射して、血色よく、生き生きと見えます。とても美しい女性でした。
隣には背の高い、爽やかな顔の優しそうな男性が立っていました。紺色のマフラーを羽織って、チラシを手に取りながら小声で女性に話しかけ、二人は何か囁きながら笑っています。女性が赤いコートのポケットから時折カイロを出して、掌で転がしているのを見て、私は、彼女の手がとても暖かった理由を理解しました。
二人とも若い大学生のように見えました。私は、二人から距離を保ったまま、女性の方から目を離すことができませんでした。男性がチラシを持って、受付の方に行きました。女性は手持無沙汰になって、後ろ手を組んで棚を眺めます。薬指の指輪が時折鈍い光を発していました。
すると、長い髪がふわりと揺れて、急に彼女が私の方を振り返りました。
予想もしていなかったため、息が止まり、何も考えられません。咄嗟に頭を下げ、「す、すみません」と口の中で呟いていました。
私の声は、彼女に届いた、ように思えます。私が頭を上げると、女性はきょとんと小首を傾げて、こちらを見ています。
そして、彼女は頬にえくぼを浮かべて、にっこりと私に微笑みました。
私は固まったまま、その場に動けなくなりました。彼女の微笑みとコートの赤が、眼に染み込んできます。それはほんの数秒にも満たなかったでしょうが、永遠のように長く感じました。やがて、彼女は目を逸らすと、上機嫌そうに鼻歌を歌いながら、再び棚の方を見遣りました。それから男性が戻ってくると、二人は腕を組んで出口の方に向かおうとしました。
男性が女性の耳元で何かを囁きます。すると、女性が白い歯を煌めかせて笑い、声をあげました。
「クリスマスなんだから、おいしいものを食べに行こうよ!」
高いけど、どこか温もりのある、大人の声でした。その温もりを辺りに残したまま、二人は出ていきました。
私はロビーに立ちすくんだままでした。彼女は一体なぜ私に微笑んだのだろう。それは決して、嘲笑や嫌悪感を持った笑顔ではありませんでした。制服姿のちんちくりんの男子高校生が謝るのを見て、微笑ましく思ったのでしょうか。それとも何か、クリスマスだから、全て笑って許す気になったのでしょうか。
私の耳に「クリスマスなんだから」という彼女の言葉が、残って離れませんでした。そうか、クリスマスは、美味しいものを食べる日なんだ、となぜか納得しました。私の両親は無宗教で、子供っぽいことを嫌ったため、家でクリスマス・パーティーなど開いたことはありませんでした。勿論、他の家に招かれたりして、クリスマスに何をするかは知っています。しかし、その時初めて、そのことの意味を、本当に理解した気がしました。
私がほんの一瞬触れた彼女の手に、あの優しそうな男性はずっと触れているのだと思いました。人と一緒にいるということは、私が感じたほんのひと時の温もりを、ずっと保ち続けることなのだろうな。そう思うと私は、クリスマスに二人が一緒に映画を観て、腕を組んで離れずにいたことが、何だかとても、奇跡的な、素晴らしいことのように思えて、心が暖まるのを感じました。
と同時に、彼女が私に向けた微笑みを思い出し、少し寂しいような、どこか息苦しいような気持になって、私はロビーを出たのでした。
1941年に製作された映画史上の名作『市民ケーン』に、大富豪でメディア王ケーンの右腕の、バーンステインという男が出てきます。ケーンが死に、生前の彼の謎を追って、記者がバーンステインを取材します。ケーンの最後の言葉について、大昔に会った女関連だろう、と適当に喋るこの年老いた男に、記者が不信感を露わにすると、老人は突然話を変えて、次のように語ります。
自分は40年以上前のある日、フェリーに乗っていた。そこで白い傘を持ち、白いドレスを着た少女を見た。彼女は自分を見ていなかった。だが、自分はそれ以来、彼女を思い出さなかった月はない。つまり、人というものは、若い君が思ってもみない程、多くのことを覚えているのだ。
まあ、何とも胡散臭い男なので、私はこの言葉を鵜吞みにはしていませんでした。しかし、最近は、これは韜晦でなく、案外この人物の本音なのかもしれないと思っています。私はバーンステインと違って、あの赤いコートの女性のことを毎月思い出したりはしません。それでも、この老人が、美しい少女を思い出す理由が分かる気がします。
それは、恋というよりも、ある種の象徴なのでしょう。人生で自分が目にした、決して手に入らない、美しいもの。ほんの一瞬だったからこそ、相手を何も知らないからこそ、自分の夢や希望、理想や野心を投影できる偶像。自分勝手なものかもしれません。ですが、人にはそうやって自分の思いを映すスクリーンのようなものが必要なのでしょう。だからこそ、忘れ難いものになるのでしょう。
その後、私も何度か恋愛を経験したものの、やはりあの赤いコートの女性と彼女の微笑は、クリスマスが来る度、時折思い出しています。彼女は私にとって、何の象徴なのか。それは、まだよく分かっていません。それが本当に分かる時は、私が人生を終える時なのかもしれません。
あるいはひょっとすると、クリスマスが毎年巡ってくるのは、そうしたことを思い出させてくれるためなのかもしれない。そんなことを考えながら、電飾を纏った街をゆく恋人たちの姿を、一人で見ていると、彼らのように、私にとってクリスマスが特別な季節である事実に、何か少しほっとした気分になります。
そして時折、赤いコートを着た女性と恋人の男性を、ほんの少しの寂しさと共に思い出しつつ、今の街を歩く、幸福そうな恋人たちの姿を見て、あのときと変わらない、心暖まる気持ちになるのです。そういったことが、私がクリスマスの恋人たちを見るのが好きな理由です。皆さんにとっても、クリスマスが、そうした楽しさと喜びに満ちた日となりますように。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も、クリスマスも、
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
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