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芳醇な香りを奏でる -サンソン・フランソワのピアノの魅惑

 
 
【金曜日は音楽の日】
 
 
私が好きなピアニストは、どこか軽やかさのあるピアニストです。
 
以前バッハの時に名前を出したヴィルヘルム・ケンプや、マリア・ジョアン・ピレシュ、私の中ではグレン・グールドもここに入ります。
 
リヒテルやゼルキン、アファナシエフのように、信じられない程重く、強い幻想を打ち出す芸術家を尊敬します。でもピアノに関していうと、この硬質な音響の楽器を、もう少し華やかに使う演奏家が好きというか。
 
そんな最愛のピアニストが、フランスのピアニスト、サンソン・フランソワです。
 
彼のピアノには、重々しさとは無縁のエスプリの華やかな芳香が満ちています。と同時に、単なる軽薄さではない、ある種の狂気の澱も沈殿している。それゆえに美しい芸術となっています。




サンソン・フランソワは1924年、フランクフルト生まれ。父親の仕事の関係でヨーロッパを転々としていたため、ピアノに興味を示して4歳で始めた時には、現在のセルビアの、ベオグラードの音楽院にいたといいます。

 

サンソン・フランソワ


その後、ニースの音楽院で才能が芽生えると、14歳でパリ音楽院に合格。名ピアニスト、マルグリット・ロンの指導を受けます。
 
そして、1943年に、現在まで続くロン・ティボー国際音楽コンクールの第一回ピアノ部門で一位を獲り、ピアニストとして華々しくデビューすることになります。




フランソワの演奏の中で最も好きなものは、ドビュッシーの『前奏曲集』です。



 
一曲目の『デルフィの舞姫』から、古代ギリシャの、乾いた風がふわふわと漂ってくるような、しどけなさ。『帆』の、ころころ転がる色っぽい音の、極彩色の響き。有名曲『亜麻色の髪の乙女』では、意外と力強く、しかも明るい響きがいっぱいに広がる。
 
そして『パックの踊り』では、妖精の可憐さとグロテスクさが交錯するように、少しつんのめったようなリズムで、高音のメロディと低音が高速で交錯していく。
 
ドビュッシ―の、タイトルを含めた短いイメージのスケッチが、美しいメロディと、軽やかなリズムによって紐解かれていく。まさに一級品の美しさです。




リヒテル、ポリーニ、ミケランジェリ等それぞれこの曲集の名演奏を残しています。しかし、この作品を弾く多くのピアニストが、どうしても力が入って、幻想を強引に作り出そうとするような感触があります。
 
盛り上げる所を強く盛り上げて、思い入れたっぷりに間をとる。それは、ことドビュッシーに関してはあまり有効に感じられません。
 
『夕べの大気に漂う音と香り』だとか、『西風の見たもの』、『雪の上の足跡』と言ったタイトルからも分かるように、ドビュッシーのピアノ曲は、あくまでつつましやかで軽やかな美を、鼻歌のように歌うものです。
 
フランソワのピアノは軽い「抜き」のような感覚があります。明らかにミスタッチと思う音が、かえって巨大な音響を構築するのをいい具合に妨げて、肩の力を抜き、ぎくしゃくしつつ、時折音が濁りつつ、総体としては、大変「粋」な演奏に聴こえるのです。
 
ドビュッシーに限らず、しなやかに呼吸するショパン、艶やかなラヴェル、明晰なフォーレ、と彼が遺した録音は、どれをとっても、粋で、軽やかな音楽となっています。





青柳いづみこ氏の名著『ピアニストが見たピアニスト』には、フランソワについての面白いエピソードがいっぱいあります。



19世紀のロマンチックなピアニスト、アルフレッド・コルトーに私淑しつつ、マルグリット・ロンの厳しい指導に、凄まじく反抗したり、自分で幻想的な詩を書いたり。或いはカフェでのこんな会話。


「何を夢見ているの? サンソン」
「何も・・・いや、僕のコンチェルトのことを夢見ていたんだ」
「今夜弾くコンチェルト?」
「いや、今書いているものだ。どこかうまくいかないんだ」


実際に彼は数曲作曲しています。『黒魔術、神秘的な三つの小品』という題名からして面白い作品。もっと作ってほしかったとも思いますが、彼の凄まじいコンサート活動とナイトライフがそれを許しませんでした。
 
何日も連続でコンサートツアーで回り、夜中のレコーディング。夜の2時に突然クレープを食べたいと言い出し、国境を越えてイタリアのレストランに友人と行く。

一人きりになるのを嫌がり、いつも友人たちと行動を共にする。心臓発作を起こして入院するも、病室でワイン片手に葉巻をくゆらせ、退院したら夜型生活に逆戻り。
 
当然ひどいコンサートも沢山あり、新聞上で音楽批評家から、あなたの名声のために、質の悪いコンサートを止めてください、健康の不調を認めることは恥ではありません、と懇願されるほど。
 
それでも、残された録音を聞けば、驚くほど生き生きとした美の饗宴を味わうことができます。





それは興味深いことに、彼が元々かなり強靭なテクニックを備えていたからのように思えます。
 
パリ音楽院で、資質的に近いロマンチックなコルトーではなく、即物的なロンに、徹底的にテクニックを叩き込まれたことにより、どんな幻想をも構築できる力を持っていたはずです。彼はテクニック重視のコンクール時代の先駆けのピアニストなのですから。
 
と同時に、ファンタジックな彼の資質は、テクニックをそのまま出すのではなく、慎ましく、遊び心をもって時折発揮するだけにしておきました。
 
幻想で人を縛り付けるなんて粋じゃない。今見せたいのは、一緒に楽しんで、夢見させる魔法なんだから。完璧に弾くから、完璧な音楽ができるわけじゃない。
 
そんな呟きが、紫煙の向こうから聴こえてくるかのような演奏です。
 
しかし、限界的な生活がつづくはずもなく、ドビュッシーの最後の録音セッションを遺したまま、1970年、46歳で亡くなっています。






彼の演奏は、非常にレパートリーが狭く、同時代からも正当な評価を受けたわけではありませんでした。『ピアニストが見たピアニスト』には、彼の弟子のブルーノ・リグットのこんな言葉があります。


彼は構造的な感覚を持った人ではなかった。感動、感覚、そして幻視の人だった。

ブラームスは手が痛くなるから嫌いだ、ベートーヴェンは田舎臭い音楽だから嫌いだ、最初のラディカルな社会主義者だから嫌いだと言っていた。

結局のところ、彼はそれらを弾く『音』を持ち合わせていなかったのだ。
 
こんにちでは、ショパン、ドビュッシー、ラヴェル、バルトークしか弾かないピアニストなど想像できない。彼のタッチは、ショパン、ドビュッシーに結びついていた。彼はゲルマン音楽には向いていなかった。

そのことが、レパートリーを狭くさせる原因になり、キャリアの拡大を妨げた。


この言葉は、非常に正確に、フランソワの本質を捉えていると思います。
 
と同時に、だからこそ、フランソワは偉大なピアニストだったのだと思います。彼の華やかで粋な感覚が最大限に発揮できる曲に、力を注いだのですから。
 
芸術家にとって、何でもできるというのは、何もできないのと同じことです。本当の個性というのは限られているものであり、何かを捨てることで、濃く彩られるのでしょう。
 
フランソワがそうやって遺したものは、辺りに芳醇な香りを遺す、ささやかで、大変粋な魔法の音楽です。是非、その芸術を一度味わっていただければと思います。
 


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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