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光に溶ける風景 -ターナーの魅力
【月曜日は絵画の日】
印象派やキュビズムのような時代の革新的な流派に属さず、メインストリームから評価され、しかも、後世にも巨匠として認められる画家がいます。
ターナーは、レンブラントやルーベンスと並ぶ、そんな画家の一人であり、同時に非常にアバンギャルドなところもあって、現代の眼で見てもまだ発見がある、稀な画家です。
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは1775年、ロンドン生まれ。幼い頃から絵画の才能を示し、14歳でロイヤル・アカデミー付属美術学校に入学。翌年には、アカデミーの展覧会に出品し、26歳の若さで、ロイヤル・アカデミー正会員になっています。
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テート美術館蔵
ターナーの活動場所は、基本的には生涯イギリスのロイヤル・アカデミーであり、遠近法の教授として、教壇で教えたりしています(ぼそぼそと喋る口下手で、あまり好評ではなかったようですが)。
作風は徐々に変わっていきますが、常に巨匠として遇されます。もっとも、本人の生活は至って地味。1851年に76歳で亡くなった時には、近所のほぼ全員が、あの巨匠ターナーとは知らなかったといいます。
ターナーの初期の絵画の特徴は、信じ難いほど精緻な風景画です。14歳で国立の美術学校に入学できたのも納得のうまさ。人物や風景だけでなく、建物のパースペクティブや描き込みも完璧です。
『ウエストミンスター・アビー』は、そんな初期の1796年、21歳時の大傑作です。
荘厳さと透明感のある聖堂が精緻に捉えられ、静寂を感じさせます。しかも、これは鉛筆と水彩によるものなのですから、誰が見ても「才能がある」と思うでしょう。
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ウエストミンスター・アビー』
ブリティッシュ・ミュージアム蔵
しかし、アカデミー会員になった辺りから、そうした精緻な描写にとどまらない荒々しいエネルギーに満ちた油彩画が増えてきます。
思想家エドマンド・バークが『崇高と美の観念の起源』を出版し、人間にとって畏怖を覚えるような風景こそが美しい、という理論を展開して大きな話題になります。
そして、雄大な風景を表す「ピクチャレスク」という言葉も流行して、「ピクチャレスク・ツアー」が組まれたりしています。
元来、アカデミーで最も権威があるのは、神話画と歴史画。風景画というのは、アカデミー基準の中で、かなり下位です。
ターナー程の才能をしても、苦労はあったらしく、風景に神話的な人物を入れたりしていました。そんな彼に、時代の追い風が吹き始めます。
そして、時はまさに、フランス革命後のナポレオンがヨーロッパを席巻した時代。1805年のトラファルガーの海戦の勝利で、何とかイギリスはその侵略を免れますが、その驚異的なエネルギーの高まりは、ターナーも感じていたことでしょう。
1812年の『アルプスを越えるハンニバルと軍隊』は、そんな諸状況によって絞り出されたパワーで満たされたかのような傑作です。
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テート美術館蔵
ローマに抵抗したカルタゴの将軍ハンニバルの有名なエピソードを描いた歴史画ですが、人物たちは、画面下四分の一程度。
彼らを押し潰すような、山々と強烈な波のような嵐、その中に浮かぶ太陽の異様な光景が、神秘を醸し出しています。
人間を超えた、全てを覆う自然の驚異こそが、この作品のメインであり、その後のターナーのトレードマークになります。
こうした作風の背後には、フランスの風景画家、クロード・ロランの影響もあります。ターナー自身、ロランを称賛し、模写を何度も残しています。
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『乗船するシバの女王がいる漁港』
ロンドンナショナルギャラリー蔵
ロランの安定した筆による、琥珀色の太古の光は、一見ターナーの荒々しい光景とはちょっと違うようにも見えます。
しかし、両者の絵画には、太陽と、その周りに溢れて画面を満たす光の感覚があります。
ロランの琥珀色に染まる森の木々や、ターナーの渦巻く嵐。眺めていると、あたかも、風景や建物がメインではなく、それらに降り注いで画面を染め上げる光が主題であるかのように見えてきます。
ターナーの『カルタゴ帝国の興隆』(1815年)は、ロランに最も近づいた瞬間であり、両者の充実期の力と、その相違点を感じることができるでしょう。
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あるいはカルタゴ帝国の興隆』
ロンドンナショナルギャラリー蔵
ナポレオン戦争が終結したこともあり、1819年から、ターナーはヴェネツィア、フィレンツェ等、ヨーロッパ中を旅行して、その光景や現地の美術に強い印象を受けます。
そして、以前より明るい光が全体に行き渡る落ち着いた絵画になっていきます。
あたかも、高まったパワーが、嵐ではなく、画面全体に穏やかに浸透していったかのようです。主題も、神話画だけでなく、より現代的・象徴的な表現も増えてきます。
代表作『雨、蒸気、速度』(1844年)や、『戦艦テレメール号』(1838年)等、あからさまな崇高さ、荘厳さではなく、大気と一体になった風景の美しさ、その表情の変化を味わうことができる作品へと変化しました。
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ロンドンナショナルギャラリー蔵
蒸気機関車がモチーフ
そして段々と、光の中に風景の輪郭が溶け込んで見えなくなるような、異様な作品になっていきます。
スコットランド地方の城を描いた『ノラム城、日の出』(1845年)は、光と空と水辺と建物が全て一体になった、驚異の傑作。若い頃描いたノラム城の光景と比べると、その大胆さが分かります。
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テート美術館蔵
未完成ではあるが、
ある意味完成しているとも言える。
まだ誕生すらしていない印象派の
その先を見つめたような作品。
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セントヒギンズ・アートギャラリー蔵
23歳頃に描かれた初期作品。
前年にこの地を初めて訪れ、
ターナーは大いに気に入り
生涯何度もこの風景を描くことになる。
絵画に限らず、文学・音楽・映画等の芸術において、巨匠の晩年の作品というものは、若い頃の脂ぎった精緻さが消え、抽象化と簡素化が進んで、殆ど神秘的、秘教的な表現になるものです。
夏目漱石の『明暗』、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』、バッハの『フーガの技法』、カール・ドライヤーの映画『ゲアトルーズ』等。
ターナーもまた、そんな巨匠の一人。後期から晩年にかけての一連の油彩、水彩等は、今の眼から見ても、過激に抽象的な作品群であり、様々なインスピレーションを与えてくれるはずです。
ターナーは、活動初期からアカデミーに認められていたこともあり、代表作だけでなく、素描等、遺された資料が非常に充実している画家です。
また、明治時代、日本に洋画が入ってきた時も、高く評価されて影響を与える等、国境や時代を超えた、普遍的な巨匠といって良いでしょう。
そして、それにもかかわらず、いや、それゆえに、まだまだ汲み尽くせない謎と、どんな前衛よりも強烈な過激さを秘めています。
駆け足で追いましたが、詳細に見ていくと、もっと細かな変化や、個別に訴えかける面白い作品も見つかるはずです。是非、そんな至高の芸術を、何度でも再発見していただければと思います。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
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