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音楽と空気をデザインする -ブライアン・イーノの魅力
【金曜日は音楽の日】
音楽は楽器を演奏できるミュージシャンだけで、素晴らしい、新しいものができるわけでもない。時には楽器から離れた斬新な発想をして、ジャンルを更新する人が出てきます。
ブライアン・イーノは、プロデューサーとして70年代以降のロックの現場に関わって、新しい血をロックに吹き込んで名盤誕生に携わっただけでなく、自身でも「アンビエント・ミュージック」というジャンルを創出した、ロックを超え、おそらくは音楽史上でも稀有な存在に思えます。
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ブライアン・イーノは1948年イングランド生まれ。美術大学卒業後、旧知の仲だったアンディ・マッケイに誘われて、ブライアン・フェリーらのいるバンドに参加。バンドはロキシー・ミュージックと名前を変え、1972年にメジャー・デビューします。
リチャード・ハミルトンのコンセプト、若さとグラマラスを前面に押し出し、奇抜な衣装で、金ぴかに塗装して解体されたような奇態なグラム・ロックを奏でるこのグループ。イーノはその中でも、長髪で華やかな衣装をまとい、シンセサイザーを操ってめちゃくちゃな効果音を出す、ある意味グループを代表する存在になります。
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しかし、ボーカルのフェリーは、そんな彼の人気に嫉妬したのか?一つのバンドに二人のノン・ミュージシャンはいらない、という理屈でイーノを解雇。
するとイーノは、74年に初ソロアルバム『ヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッツ』でソロデビュー。ロキシーと同じ感触の、ペラッペラかつ奇妙な効果音に溢れたグラム・ロックでありつつ、本人が好きだというドゥーワップにも似た甘い旋律が溢れる秀作です。
二作目の『テイキング・タイガー・マウンテン』では、音はよりハードになり、日本や中国についても歌われる、オリエンタルなエキゾチズムを湛えた奇妙な作品になりました。
ここまではグラム・ロックの延長とも言える活動だったのですが、一気にギアを入れ替える出来事が起きます。
交通事故で入院していたイーノは、友人が持ってきてくれたバッハのアルバムを枕元でかけます。小音量で流すうちに、「能動的に聞くのではなく、聞き流して無視できるような音楽」のコンセプトを思いつきます。
自身のレーベル「オブスキュア」から、75年『ディスクリート・ミュージック』を発表。
タイトル曲では、細切れのシンセやキーボードの音がゆったりと空間を漂い、時折メロディを形成してはぼんやりと静かに消えていく。機械的なテープ編集によるこのあらゆる熱狂から遠い、何の高揚もない音楽こそ、後のあらゆる「アンビエント」、「ニューエイジ」音楽の元祖でした。
同年の『アナザー・グリーン・ワールド』はそこで得た静寂を、ポップソングに生かしたような大傑作アルバム。夜のとばりのように落ち着いた曲と、メタリックな音響でもどこか低体温のロックが交錯するこのアルバムは、イーノのその後の二面性を予見していました。
まず、アンビエント音楽方面では、「オブスキュア・レーベル」を主宰してハロルド・バッドやジョン・ハッセルの現代音楽をリリースして援護。そして、彼が見出したダニエル・ラノワはまさにその霧深い「オブスキュア」な音響を駆使したサウンドで、80年代に一世を風靡することになります。
イーノ自身もドイツのアバンギャルドグループ、クラスターとコラボして、静かなピアノを特徴としてより静謐さに磨きをかけ、『ミュージック・フォー・エアポート』、『ビフォア・アンド・アフター・サイエンス』と、名アルバムを連発。
前者は、「空港で流すアンビエント音楽」というコンセプトの環境音楽。後者は名曲『バイ・ディス・リバー』を含む、より静謐さとハードさの対比が際立つ名作です。
その後者のアルバムでも歌われていたトーキング・ヘッズとイーノは接近。彼らのプロデュースをすると、民族音楽を取り入れつつ、研ぎ澄まされた音響のダンス・ミュージックに仕上げていきます。1980年の『リメイン・イン・ライト』はその頂点に達した、何物にも似ていない高揚感に包まれた、ワールドミュージックとロックを超えた名作でした。
また、ドイツ系のアバンギャルド音楽に興味を持っていたデヴィッド・ボウイとの共同作業もあり、彼の「ベルリン時代」の『ロウ』『ヒーローズ』『ロジャー』をプロデュース。深い憂愁に満ちたヨーロッパの香りと、電気的なダンス・ミュージックが交錯するこれらの作品は、後のニューウェーブに多大な影響を与えます。
ここまで書くと、イーノはある種のカルトヒーローに見えてきますが、それだけではありません。実のところ、彼は「ヒットメーカー」でもあります。
何せ、ラノワと共同プロデュースにあたったU2の87年のアルバム『ヨシュア・トゥリー』とシングル『ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー』、そして2008年のコールド・プレイのアルバム『美しき生命』とそのタイトルシングルは、いずれもチャート一位を記録して大ヒットしているのですから。
U2、コールド・プレイも含めて、彼のプロデュースするアーティストには、静寂と熱狂を上手く使いこなせるアーティストが多いように見えます。イーノ自身、プロデューサーとしては、色々新しいアイデアを提案したり、ミュージシャンが居心地のいい環境を創ったりと、サポートタイプの人であり、そんな彼の特性がどこかに溶け込んでいるのかもしれません。
その意味では、彼はエンジニアではないけれど、音楽が持つある種の空気感を決定できる人のように思えます。その空気感は、実はファンタジーからほど遠く、熱狂がありつつもべたつかないクールさがあり、教会のような静寂と敬虔さを持ち、光と影の模様のようなシンプルさを持つ。
彼はプロデュースと並行して、自身のアンビエント音楽も定期的にリリースしていますが、「香り」を再現する(『ネロリ』)、光の戯れの描写(『ラックス』)、宇宙について(『アポロ』。この中の一曲はロンドン五輪でも流れました)等、徹底的に具象的なコンセプトを伴っているのが面白い。
そんな彼のソロでも素晴らしい傑作が、2016年の『ザ・シップ』でしょう。
柔らかい音響の中でたゆたうように呟きが漏れる「タイタニック号の沈没」についてのコンセプトアルバム。
美しいアンビエンスの後に、晴れ間が差し込むかのように、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの曲『アイム・セット・フリー』が、イーノのボーカルでカバーされます。その強烈な歌詞。
私は自由になる
別の幻想を見つけるために
2016年、このアルバムが発売された数か月後に、イギリスのEU脱退を決める国民投票があり、更に11月にアメリカ大統領選挙がありました。それらの結果は周知の通り(ちなみにイーノは一貫してEU脱退に反対していました)。
おそらく時代の「空気感」を恐ろしいほど正確に捉えていたからこそできた、イーノにしかできないコンセプトでもあったのでしょう。
現実の空気を捉えつつ、多くの人と対話して、静寂と熱狂の音響を引き出して音楽をデザインするイーノの活動の在りようは、私にとっての理想の一つです。そんな彼の今も続く旺盛な活動を、是非体験いただければと思います。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。
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