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時のコラージュを駆け抜ける -コミック『ヒア』の面白さ


 
 
ストーリーやビジュアル、音楽といったエンタメや芸術の要は、時間や空間をどう切り取るかであり、それはつまり、私たちの生を、どう再構築するかでもあります。
 
アメリカのコミック作家、リチャード・マグワイアの2014年の作品『ヒア』は、他にはなかなかない独特な時間と空間の組み立て方をされた、驚くべき作品です。
 
コミックとも最早言い難い、通常の意味の物語とも違う、あえていえば詩や音楽に近いビジュアル作品になっています。


リチャード・マグワイア
『ヒア』表紙
©Richard Mcguire


最初のページは、暖炉と窓と本棚のある、誰もいない部屋。そして、左上には「2014」という文字。
 
ページをめくるごとに、左上の文字は、1942,2007,1957と変化します。そして、その度毎に内装は変わり、出てくる人物も全く変わる。そう、定点カメラのように、一つの部屋から、あらゆる時代の人々の営みを見るのです。
 
そして段々と、見開きの一つのページの中に、他の「時」が侵入してきます。
 
背景は1995年の部屋だけど、ソファのところでは1979年に記念写真を撮り、窓辺には1998年の人物が「どんなふうに人の記憶に残りたい?」と会話し、暖炉の傍では1933年の少年がでんぐり返りをして遊んでいる。
 

『ヒア』
日本語版では全ての台詞が翻訳されている
©Richard Mcguire


それは20世紀に限った話ではありません。17世紀の先住民の森での生活、1775年の、アメリカがイギリスから独立する前年のお屋敷、そして紀元前の太古の森まで、最早部屋などない、「「ここ(ヒア)」で何が起きていたのか、という様々な時間のコラージュとなっているのです。
 
そして、未来に向かって飛翔し、収束していく。あらゆる時代のざわめきが流れ込んで、活気のあるノイズを生み出していた空間が、段々と静けさに包まれます。

300頁以上を駆け抜けた後に残るその美しい余韻は、是非作品を鑑賞して味わっていただければと思います。






この作品がうまいと思うのは、謎と分かりやすい繋がりの、絶妙な匙加減です。
 
例えば1989年で咳にむせてひっくりかえってしまった老人は、その後どうなったかは分からない。1910年にステッキで殴り合う紳士たちは、なぜそんなことをしているのか分からない(部屋なのに帽子を被っているのも不思議)。それぞれの断片の背景はよく分からないことが多いです。
 
しかし、その代わりに分かりやすい繋がりがあります。例えば、1949年、1924年、1988年、1945年とそれぞれの年代で赤ん坊を抱いた女性がいる画面が、背景は1957年の部屋で同居している姿は、いつの世も変わらない人間の営みを感じさせる。
 

『ヒア』
©Richard Mcguire


それだけではなく、1870年に野原で画家が女性と会話しながら描いた風景画が、1920年や1960年の部屋に飾られていたりと、ページを超えた時空の繋がりもあります。
 
勿論繋がらない場合が殆どですが、西暦二万年(!)の背景に、2006年の留守番電話のメッセージが被ったりするユーモアもある。
 
つまり、ここには分かりやすい物語の因果律がない代わりに、断片を繋ぎ合わせる、類似や対位法の規則が使われています。
 
その形態が、この作品を音楽に近い印象にしています。その意味で、これは通常の分かりやすい物語があるコミックとは違う、ゴダールの90年代以降の映画にも近い、ビジュアルによる詩になっているのです。




作者のリチャード・マグワイアは、1957年、ニュージャージー州生まれ。長年『ニューヨーカー』誌に寄稿しつつ、バンド活動をしたり、アニメーション、コミックを手掛けたりと多彩な活動をしています。
 

リチャード・マグワイア


『ヒア』は、元々は1989年に発表されたたった6頁の短編でした。そこでは既に時を同一画面で並列させるアイデアが使われており、2000年にはそれを更に発展させたグラフィック・アートの短編を発表(この二つの短編も、日本語訳版の特典冊子で読むことができます)。
 
ただ、それらを見ると、まだアイデア勝負といった感じであり、恐らくは書き溜められ、300頁を超える大作へと膨らんだことで、様々な「時」の繋がりや、ざわめきの音響、豊かな細部描写の叙情、ふくよかな余韻といったものが枝葉を付け、時の大樹となったように思えます。


6頁版の『ヒア』
©Richard Mcguire




しかし、通常のストーリーと全く違う分、興味深い印象も残します。
 
この作品には、1970年代のアメリカで青春を過ごした作者のマグワイア自身の個人的な思い出も入っており、両親の写真からの引用も含まれているとのこと。恐らくは彼自身が家族や友人と交わした会話もあるのでしょう。
 
また、ニューイングランド時代の屋敷や、1910年代の長閑な草原に並ぶ家の風景は、アメリカ人の彼の原風景でもあるはず。
 

『ヒア』
©Richard Mcguire


個人的には、そうした風景に、最後まであまり入り込めなかったという感触が強いです。というのも私個人の趣味として、この作品に描かれている場所や時代にそれほど惹かれず、そうした場所の匂いのようなものに馴染めないと感じてしまう。これが、1920年代のヨーロッパや日本、あるいは中世のヨーロッパや中東アジアであれば、私にとっては全く違ったでしょう。
 
おそらくですが、因果律のあるストーリーがない分、時代や場所の「体臭」のようなものが強く出てきている気がするのです。
 
私は『ヒア』に描かれている場所や時代が舞台の小説や映画なら、楽しく鑑賞できます。それは、物語の面白さが、そうした体臭を抑えて、興味を持続してくれているからなのかもしれない。そういう意味で、物語とは、いつの時代でも通用する、普遍性を持った装置なのかもしれません。




この作品を映像化する動きもあるようですが、多分制作したとしても、『ヒア』原作が持つ静けさや匂いと全く違うものになると思います。

おそらくは、物語を排し、時のコラージュにしたことで、小説や映画のように流れる時間とも、絵画のように静止した時間とも違う、様々な時間が混ざった場所の匂いが溢れたように思える。それゆえに、ある意味、直接感覚に訴えるような作品になったのでしょう。
 
逆に言えば、この作品の時代が「合う」人には、思い切りその空間の中で夢想に浸れる作品なのは間違いありません。
 
そして、仮に合わない人でも、時とは何か、空間とは、記憶とは何かという思考を誘発される、素晴らしい作品になっています。是非その「時」の叙情の香りを体験していただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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