幸福の幻が揺れる -フラゴナールの絵画『ぶらんこ』の美しさ
【月曜日は絵画の日】
優れた絵画の中は、人類にとって、ある種のアイコンになったものがあります。
勿論その筆頭には、ダ・ヴィンチの『モナリザ』、『最後の晩餐』がありますし、ムンクの『叫び』も、何度もパロディが作られ、広く人口に膾炙している作品でしょう。
フランス・ロココの画家フラゴナールの『ぶらんこ』も、そんな作品の一つであり、しかも華やかさと儚さが同居した名作です。
(以前、こちらの創作の『カサノヴァの夜』第1シリーズ第3話で、手紙の中でフラゴナールを少し登場させたことがありました)
ジャン・オノレ・フラゴナールは1732年、フランスのプラヴァンス地方生まれ。職人だった父親の仕事がうまくいかず、小さい頃にパリに移住します。
絵画の才能に目覚め、偉大な静物画家シャルダンの元で学びますが、厳しい描写の訓練に嫌気がさして、半年で辞めて独学で絵画を学びます。
その後、ロココを代表する画家ブーシェの元に弟子入り。当時人気絶頂で注文も多かった画家のタピスリーのデザインを任されます。
絵画教育を殆ど受けていないにも拘らず、ブーシェはこの弟子の才能を高く評価し、王立アカデミー主催のローマ賞にチャレンジするよう勧めます。すると、アカデミーに合わせたスタイルの歴史画を制作して、一度目の挑戦でローマ賞を受賞します。
ローマやヴェネツィアでバロック芸術を吸収し、フランスに戻って旺盛に制作をつづけ、1765年には若干33歳でアカデミー会員になります。
しかし、生来陽気で活動的、ウィットとユーモアに富んで友人から「愛すべきフラゴ」と呼ばれていたフラゴナールには、アカデミーの堅苦しい雰囲気は合いませんでした。
貴族から個人的な注文を受けるようになり、型にはまらない官能的な作品や肖像画を制作するようになります。
1766年の『ぶらんこ』は、そんな彼が最も脂ののった時期の作品です。
この作品は、とある貴族が、当初、フランソワ・ドワイヤンという別の画家に依頼したものでした。
自分の愛人がぶらんこにのって、教会の司教がそれを揺らしている、という場面を描いてほしい、自分は彼女の脚とスカートの中を見られる場所に描いてほしい、とのこと。
この悪趣味極まりない、しょうもない注文に、当然ドワイヤンは激怒。依頼は断り、友人のフラゴナールを紹介します。
この手の扇情的な絵の注文に慣れていたフラゴナールは快諾します。ただし、司教ではなく、女性の夫にするという、より物語性のある条件で。
そして、場面を描き込み、一気に仕上げます(フラゴナールは生涯速筆でした)。たちまちこの絵は評判になり、版画も大量につくられることになります。
この作品の素晴らしさは、何といっても、ぶらんこを漕ぐ女性の躍動感でしょう。
光差し込む深い森の中で、華やかなドレスを着てぶらんこを漕いでいる。緑の補色のピンク色のドレスが光に映え、ミュールが脱げてしまったその瞬間を捉える妙味。
丁度その下に愛人がいるわけですが、当初の覗きという意図を超えて、どこか、彼女の華やかさに目が眩んで、見惚れているようなニュアンスがあります。
それを可能にしているのは、女性の豪華なドレスとミュールです。下世話な話ですが、ドレスが幾重にも重なっているので、覗きの性的なニュアンスが曖昧になっている。
そして、脱げて飛び出したミュールによって、男性の見上げる視線の方向もぼかされた格好になります。
背景には多彩な要素があります。唇に指をあて、内緒のポーズのキューピッド像、困惑した顔のプシュケ像、そして何よりも、画面を覆い尽くす、どこか異国情緒を感じさせる深い森の木々。
そうした詳細な描き込みが、全体のトーンを決めるだけで、あくまで背景にとどまっているのが素晴らしい。
よく見れば、そういった象徴や描き込みが分かり、よく考えれば、夫に見えない場所に隠れて愛人の男がいる危険な絵なのですが、そういったものが溶けて、前面にはでてこないのです。
この作品が多くの人の心を打つのは、ある種の性的な要素が隠され、華やかな女性の躍動感とそれを見上げる男性に、爽やかな後味を加えて、どこか青春の喜びを味合わせる絵になっているからだと感じます。
おそらく、フラゴナールは描いていくうちに、どんどんと当初の目的を超えて、この場面の美しさ、華やかさをどう引き立てるかを考えて描いていったように思えます。でなければ、悪趣味な注文仕事に、ここまで詳細に描き込みを行うでしょうか。
描いていくうちに、下世話な意図は昇華されて、華やかな喜びのイメージが花開いた。そんな奇跡的な、魔法のような時間がここには収められているように思えます。
と同時に、それはあまりにも儚い青春の時間でした。ロココを代表する画家と言われますが、フラゴナールは、ヴァトーやブーシェに比べて、生まれるのが遅過ぎました。
時代は、柔和で細々とした描き込みを嫌い、この作品以降、段々とフラゴナールの注文は減ります。
1771年に、国王ルイ15世の愛人デュ・バリー夫人から装飾画の注文を受け、製作したものの、気に入らずに送り返され、落胆したフラゴナールは、絵だけ受け取って、金銭を拒否しています。
1789年にはフランス革命が勃発し、フラゴナールはパリを脱出。時代の寵児は、勇壮で簡素な、古典的な表現のダヴィッドでした。
もっとも、ダヴィッドとフラゴナールは仲が良く、1793年にパリに戻ると、ルーブル宮殿内の美術品管理を任されます。
しかし、その地位もナポレオンのルーブル美術館拡張によって剝奪され、パレ・ロワイヤル内で細々と暮らし、1806年に亡くなっています。
後年のフラゴナールには、『読書する娘』のように、どこか静謐な空気を纏わせる作品も出てきました。それは、こうした時代の変化を肌で感じていたようにも思えます。
それは、実のところ『ぶらんこ』にもあるものと言えるかもしれません。あの青春の光景は、鬱蒼とした森と光に包まれて、神話の中の幻影のようにも見えてきます。
フラゴナールが成長した時期はルイ15世の後期で、フランスの財政が逼迫し、かつての太陽王ルイ14世の栄光も陰った時期でした。
農村では貧困が加速し、教会・貴族以外のいわゆる第三階級の憤懣も溜まっていた時期。それはやがて、革命という形で大爆発します。そうしたものをどこか無意識に感じていたのかもしれない。
こんなことが続くはずもない、という予感が、ある種の神秘と美しさを付け加えていたようにも思えるのです。
『ぶらんこ』は、最近ですと『アナと雪の女王』の中で、ヒロインの少女時代を描く際、堂々と引用されていました。そこには、隠された意図は特になく、有名な絵画であるからという要素が大きいのでしょう。
それは『ぶらんこ』が、ある種の青春の幸福を表した、普遍性を勝ち得ているということでもあります。
幸福は儚くとも、芸術になったとき、幻のように立ち上がって、私たちの脳裏に鮮やかに刻まれていくのでしょう。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
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