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澄んだ空気にひたる -セガンティーニの絵画の美しさ


 
【月曜日は映画の日】
 
 
絵画において「透明感」を出すのは、とても難しいことです。絵画そのものが、透明ではない「線と色」で構成されているからです。
 
主にスイスで活動した画家セガンティーニは、そんな透明感に満ちた絵画を残せた、稀な画家です。




ジョヴァンニ・セガンティーニは、1858年、現在の北部イタリア、トレンティーノ地方生まれ。スイスの画家のように思われていますが、本人はイタリアが故郷だとはっきり公言しています。

実のところ、当時はオーストリア=ハンガリー帝国の一部であり、この微妙な立ち位置が、彼の画業に影響を与えています。
 

ジョヴァンニ・セガンティーニ


読み書きすら学べない貧しい幼年期の後、ミラノに出て、美術アカデミーで絵画を学んで、画家として独立します。

1879年に、生涯の伴侶となるビーチェと出会いますが、セガンティーニ自身に国籍がない(幼い頃、手続きに問題があったとのこと)事実もあり、結婚せずに同居生活をしています。そして、このおかげで、住んでいた村から白眼視されて転居を繰り返すことに。
 
しかし、作品は順調に評価され、1886年、スイス北部のアルプスを望むグラウビュンテン州に引っ越すと、画面は静けさと透明感を増し、傑作『アルプスの真昼』等次々に発表。
 

『アルプスの真昼』
セガンティーニ美術館蔵


更に高地の渓谷に移り、メーテルランクやダヌンツィオ等、当時の世紀末の象徴主義の詩人にも影響を受け、『悪しき母たち』のような傑作を手掛け、ヨーロッパ各地で回顧展が開かれました。
 
しかし、厳しい高地での驚異的な量の描き込みによる製作は、確実に彼の身体を蝕み、1899年、急性腹膜炎により41歳の若さで亡くなっています。




セガンティーニの絵画は、驚くほど詳細に描かれた自然や、風景。そして、それとは対照的に澄み切った空気感です。

 

『編み物をする少女』
チューリヒ美術館蔵


と言っても、筆致は、アカデミー派のすべすべした絵画と違い、寧ろごつごつとして、印象派の影響も明らかに伺わせます。しかし、印象派なら大雑把に「印象」のタッチで流すところを、一つ一つ丁寧に糸を編むように刻み込みます。
 
そうすることで、印象派のふわっとぼやけた空気感がなくなり、異様に澄んだ画面となる。輝いているのでもなく、すべすべでもなく、ただレンズのピントが隅々まで合って、くっきりと全てが見えるような感覚。雪が埃を吸収して澄んだ大気になったような空気感を、見事に表現しているのです。


『死』
セガンティーニ美術館蔵




こうした絵画ができたのは、彼がアルプス地方の空気感を知っていること、そして、イタリア北部のミラノで修業したことが大きいように思えます。
 

『アルプスの真昼』
大原美術館蔵


勿論ミラノは、ダ・ヴィンチが20年間滞在し(『最後の晩餐』があります)、カラヴァッジョを輩出した都市。あとはヴェルディのオペラ(ミラノ・スカラ座)もある。

しかし彼ら以外歴史的に、イタリア中部のローマ、フィレンツェ、南部のヴェネツィアとナポリに比べて、微妙に美術の中心と言い難いところがあります。

そして、お隣のサルデーニャ公国に併合され、1861年のリソルジメント(イタリア統一)の中心となったため復権した、工業都市でもある。
 
セガンティーニの出自の通り、当時のオーストリア・ハンガリー帝国とも接しており、イタリア統一間もないその時代には、まだ文化的な名残りがあったでしょう。彼の絵には、ハプスブルク帝国圏美術特有の、硬質な華やかさのエコーも感じます。

そういえば、ミラノ名門貴族出身の映画監督ルキノ・ヴィスコンティにはドイツ系の血も流れており、『ルートヴィヒ』を始めとするデカダンな「ドイツ三部作」もありました。

セガンティーニはこうした場所で、あまりルネサンスの伝統美術に囚われず、印象主義、象徴主義といったフランス主体の異国の芸術運動に難なく入り込めた気がするのです。
 
そして何より、文字通り無国籍な彼の状態が、澄んだ空気のアルプスの高地まで彼を導き、伝統の軛を解き放って独自の芸術まで上り詰めさせたことは間違いありません。


『自然』
セガンティーニ美術館蔵




そんな独自の場所で、彼の絵画は、印象主義と象徴主義の中間のような、他には見ない味が出てきます。
 
『悪しき母』は、淫蕩ゆえに子供を堕ろした母たちが罰せられるというインドの仏教説話に依る詩に基づいたもの(ちなみに作者のルイージ・イッリカは、プッチーニのオペラ『トスカ』等で知られ、当時の文化的な繋がりが分かります)。
 

『悪しき母たち』
オーストリア・ギャラリー蔵


しかしそうした東洋的な説話を超え、雪原の中、枯れ木に絡めとられた(その形状はへその緒を暗示しています)女性像は、涅槃の静けさを示しています。まるで、山の静寂や冷気によって立ち上った幻のようです。
 
印象主義の画家よりもマニエリスティックに幻影を描き、象徴主義の画家たちの多くがアカデミー流のすべすべした筆致だったのに比べて、印象主義的な肌触りがある。ハイブリッドな新しい美に満ちているのです。


『湖を渡るアヴェ・マリア』
セガンティーニ美術館所蔵




生前のセガンティーニは、多くの栄誉に包まれ、評価も非常に高かった画家です。今ではやや忘れられてしまった感があるのは、その立ち位置が原因の気もします。
 
ハイブリッドであるがゆえに、どこにおいてもおさまりが悪い。時代的には世紀末美術真っ只中で、本人も世紀末的な象徴詩人に影響を受けているのですが、そうした濁った空気の退廃味とは全く違う、きりりと澄んだ大気のナチュラルな幻影の絵画。


『淫蕩の罰』
チューリヒ美術館蔵


流派では説明できない根無し草ゆえ、当時ではとても新鮮に思われても、今歴史的に振り返ると、忘れられがちな画家。19世紀後半の印象主義・象徴主義から、20世紀初頭のキュビズムに至る流れの、エアポケットに入ってしまっている感があります。
 
それはつまり、印象主義からキュビズムに至る美術運動の流れが、近代都市主体であったことにも表れているでしょう。
 
でも、その澄んだ空気は、アルプスの当時の時代背景を超えて、普遍的な人間の営み、そして自然の中での生活に潜む、この世を超えた幻視を、驚くほどの透明さで刻み付けています。
 
緻密な筆致が生み出した透明さは、なかなか他では味わえない静寂を持ち、絵画に限らない多くの「静寂の美」を持った作品の最良の一つとして、今もなお、静かに佇み続けているように思えるのです。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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