![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/174012045/rectangle_large_type_2_6a15f25d34ec0983481b2fa0255fd680.jpeg?width=1200)
友愛の印象派 -ピサロの絵画の魅力
【月曜日は絵画の日】
「いい人」というのは、芸術や競技の分野ではあまり高く評価されないことが往々にしてありますが、それでも重要な存在です。
印象派の中でも屈指のいい人で、ある種のまとめ役でもあったピサロは、そうした存在の大切さを改めて教えてくれます。
カミーユ・ピサロは1830年、当時のデンマーク領だったカリブ海のセント・トーマス島出身。父親は裕福な商人で、幼少期はパリで教育を受けた後、島に戻って家事を手伝うも、画家への夢を捨てきれず、家出してベネズエラへ旅したりしています。
![](https://assets.st-note.com/img/1739101101-in2lTKABjUfdm07gwSFcGqaO.png?width=1200)
25歳の時、ようやく画家になることを許されてパリへ。コローと知り合ったり、クールベに注目したり、マネのスキャンダラスな作品の評判を聞きつけたりと、さまざまな絵画を吸収します。
サロンに何度か入選するも、貧乏暮らしのまま。元々アカデミー絵画に馴染めなかったピサロは、モネ、ルノワールらシャルル・グレールの画塾に集まっていた若者達と出会います。
モネ達と共に、自分たちで展覧会を開くことが形になってくると、ピサロは運営委員として奔走。そして、1874年、44歳の時に伝説の第一回印象派展が開催されることに。賛否両論を引き起こしましたが、本人の苦しい生活は変わらず。
![](https://assets.st-note.com/img/1739101260-i7TEBnGyF6lIoUew1MRJ3bCX.png?width=1200)
ワシントン・ナショナルギャラリー蔵
モネやルノワールら印象派の主流と、ドガの対立をなだめつつ、計8回の印象派展を開催。ピサロの尽力が大きかったことは、誰しもが認めることでした。彼自身全8回に出品しています。
1885年には、スーラと知り合い、55歳にして点描を試みます。スーラの大作『グランド・ジャット島の日曜日の午後』が1886年、最後の第8回印象派展に出品できたのも、ピサロの配慮によるものでした。
![](https://assets.st-note.com/img/1739101312-E4gHkwhmoCcWfdYzLNFbVxS7.png?width=1200)
ダラス美術館蔵
点描時代の作品
スーラの死後は、印象派的な作風に回帰し、晩年には再評価もされ、パリのホテル自室からの穏やかな風景画を残しました。1903年、73歳で亡くなっています。
ピサロの功績は、何よりも印象派展の開催を継続させたこと、そして多くの画家を支援したことでしょう。
事務方としてだけでなく、割と気まぐれな芸術家気質のモネやルノワール、シスレーらと、お金持ちのおぼっちゃま気質で偏屈なドガとの間を、何とか取り持つ。
![](https://assets.st-note.com/img/1739101531-Qq3Ajh7sxXpWeBIDlUcSKio8.png)
カル―スト・グルベンキアン美術館蔵
そして、第四回から六回までは、方向性の違い(ドガはサロンに出品する画家を排除したがっており、生活のためにサロンに出品するモネやルノワールらとの対立は深刻でした)により、完全にドガ中心になったときも、継続して開催につなげています。
作品の質という意味では、モネやルノワールらがいた第一回から三回、そして、画商デュラン・リュエルの破産危機のために、かつての仲間が再集結した第七回が圧倒的でした。
しかし、全八回も続けたことで、印象派という概念が浸透し、その後の各国への広がりに繋がった面は、確実にあるでしょう。非常に開かれた民主的な運営でもあり、多くの若者に「こういうものを創ってみたい」と思わせる一つのムーブメントとなりました。
![](https://assets.st-note.com/img/1739101445-wlkbT8LEAKXScoaO6mjd5MZ1.png?width=1200)
オルセー美術館蔵
この名作は第三回印象派展出品作品
そして、ある種の教育者としての側面も見逃せません。
謙虚で滅多に怒ることはなく、面倒見が良くて、絵画を観る目は確か。モネやルノワールが拒絶したスーラの点描のような、新しいものを評価する柔軟性もある。
そして重要なのは、画風に悩んでいたセザンヌに、戸外制作や、明るい色彩による自然描写を勧めたこと。セザンヌ独自の風景画や静物画への飛躍を促しました。
また、アマチュアだったゴーギャンを褒めて、印象派展に誘っています。もっとも、まさか仕事を辞めて画家になるとは思わなかったとのことですが。ゴッホもいち早く評価し、ゴッホの弟の画商テオは、ピサロの個展を開いています。
![](https://assets.st-note.com/img/1739101624-KBIRSm9lHEYbfV1nxay3jqu6.png)
1873年という、印象派初期の頃
ドガ、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホと、揃いも揃ってコミュニケーションに問題の抱える連中とちゃんと対話し、「ピサロだけは尊敬する」という評価を得るほど、ピサロは彼らに前向きな影響を与えました。
パトロンでも美術批評家でもない、同業の画家だからこそ、素直にアドバイスを聞ける面はあるでしょう。そして、そんなアドバイスをできるくらい「いい人」で優れた芸術家は限られているものでもあります。
スポーツにも「黄金世代」と呼ばれるものがあるように、天才とは時代の中で単独で生まれるわけではなく、多くの優れた才能のある者が切磋琢磨する場の中から出てくるものです。
ピサロは、印象派というジェネレーションが活躍する場を築き上げた、重要な一人であり、その意味で永遠に美術史に残る人でしょう。
![](https://assets.st-note.com/img/1739189891-1H6jPBgEKRsb94xF2aShY7Zl.png?width=1200)
個人蔵
では、そんなピサロの作品自体はどういうものかというと、意外と知られていない面があるように思えます。
一応典型的な印象派作品と言えるのですが、興味深いのは、あまり水や空に関心を寄せていないことです。
第一回印象派展に『白い霜』を出品した時に、「キャンバスの上にパレットの削り滓をまき散らしているだけ」と批評家から酷評されているのですが、土のざらっとした質感が確かに印象的であり、それは彼の特徴のように思えます。
![](https://assets.st-note.com/img/1739101181-BqyeT2jEoduwK4S3NRsbX0Fn.png?width=1200)
オルセー美術館蔵
モネのように光の効果を重視せず、シスレーのように空と水を溢れさせたりしない。どこか大地を再現するような、ごつごつした感触。
後年の『棒切れを持つ農家の娘』のように感傷的な側面もあり、それもルノワールのような親密さより、瞑想的な表情があるのは面白い。
![](https://assets.st-note.com/img/1739102152-DqdjUPExt2voNkQVMyziYe15.png)
オルセー美術館蔵
ピサロは南海の島生まれで、幼い頃から海をよく見ていたのに、海の絵画より、大地や静かな農民の絵画を残したのは、戸外制作という手法も相まって、そういう場所に自分の身を置くのが好きだったのでしょう。
そして勿論、そうした大地と結びついた人々を、心から愛していたからでもあるはずで、彼の強い意志をも感じられるように思えます。
![](https://assets.st-note.com/img/1739102114-Jrj3qZfiVk0zm8FsNWpDnbdB.png?width=1200)
冬の効果』
オルセー美術館蔵
自分が本当に好きなもの(時には憎むもの)こそが、自分の創るものを決めるのであり、それはひいては自分の一生を決める。
謙虚で、多くの人と共に印象派というムーブメントを創りあげたピサロは、友愛に満ちた優しい画家でもあり、そんな気質は、表面的なテーマではなく、彼の絵画作品の中の、しっかりとしたマチエールに表れているように思えます。
あるいは、晩年の傑作『パリのテアトルフランセ広場』のような、落ち着いた穏やかな詩情。
![](https://assets.st-note.com/img/1739101871-8bE4s7z9dDO2hoBFwp6atKH3.png?width=1200)
ワシントン・ナショナルギャラリー蔵
そうしたものの中に、印象派の絵画が隠し味として持っているしなやかさや、ある種の自由もあるように感じます。それゆえ、ピサロの作品は、印象派の一つの中心として残っていくように思えるのです。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。
こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、各マガジンからご覧いただけます。
楽しんでいただけましたら、スキ及びフォローをしていただけますと幸いです。大変励みになります。