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記憶の代わりに言葉を浮かべる -『「不在」 ―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル』展を巡る随想


 
 
三菱一号館美術館で開催中の『「不在」 ―トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル』展に行ってきました(1/26まで)。


久々の再開館記念ということでしたが、様々な意味で興味深いものでした。




展示は、前半が三菱一号館美術館所収の、ロートレックのポスターや素描の展示、後半が現代美術アーティストのソフィ・カルの展示です。
 
前半のロートレックのコレクションは、アリスティド・ブリュアンのお馴染みのポスターや、モンマルトルのダンサー、ロイ・フラーを捉えた素描もあり、質も高く良いもの。
 

ロートレック
『ムーラン・ルージュのラ・グリュ』


「不在」というワードに結び付けたセクション分けは、ちょっと、いや結構苦しい感じがしましたが、私は力技でテーマを創り出して雑多なものを纏める手法が嫌いではないので、全く気にならずに楽しむことが出来ました。




そして後半のソフィ・カルは、私は初めて展示を見るアーティストでした。
 
ソフィ・カルは1953年、フランスのパリ生まれ。左派系の社会活動家として世界各地を放浪した後、パリの大学でジャン・ボードリヤールや、ダニエル・ドゥフェールといった社会学・社会運動の泰斗の影響を受けているのが興味深いです。再び放浪した後、80年代初頭から美術活動を始めたとのこと。


ソフィ・カル




ソフィ・カルの展示は、彼女の今までの作品と、コロナ禍での新作の組合せでしたが、その特徴は、凄く単純に言えば、個人的な彼女の思いの言葉と、それに付随する写真を並置するというものです。
 
例えば、こんな文章が白い枠をつけて掲げられる。
 

1986年12月27日母は日記に
「今日、私の母が死んだ」と書いた。
2006年3月15日、今度は私が
「今日、私の母が死んだ」と書く。
もう誰も私のために
そう言ってくれる人はいないだろう。
これで終わり。


その額の下に、庭園に横たわって、埃塗れになった石膏の女神像の写真が、縦向きに展示される。
 
言葉とずれているようでもあり、共振しているようでもあるビジュアルの写真。それらが融合することなく、ただ並べられることで、情感とほのかなユーモアが立ち上ってくる。
 
あるいは、盗まれた絵画のあったところに佇むキュレーターの後姿の写真の横に、彼ら彼女らの思いの言葉を展示してあったりする。
 

『フェルメール「合奏」』
(『あなたには何が見えますか』シリーズより)
Installation photo : Claire Dorn,
courtesy of the artist and Perrotin
©Sophie Calle
/ ©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2024 G3622


『なぜなら』というシリーズは、「なぜなら」という始まる俳句のような詩的な言葉が、ウールの幕に印字されて壁にかかっており、幕をめくると写真が見えるという仕掛け。例えば
 

なぜなら、ここ橋の上にいるから
なぜなら、写真を撮らないマリーと一緒だから
なぜならわたしたちふたりっきりなので
なぜなら、世界の果てにいれば
そうせずにいられないから
(中略)
思い出のために
 


という文の幕の下には、美しい北極の海の写真があったりする。多分、彼女の個人的な記憶、風景を見た時の思いが、その写真のイメージとずれを起こしつつ、言葉となって刻まれています。


『北極』(『なぜなら』シリーズより)
Installation photo : Claire Dorn,
courtesy of the artist and Perrotin
©Sophie Calle
/ ©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2024 G3622




こうしたある種のコラージュは、実のところ本でも簡単にできます。過去にもブルトンの『ナジャ』からゼーバルトの『アウステルリッツ』まで、添えられた写真が文章に結びついて、絶対不可欠な作りになっている名作小説は存在します。
 
実際、ソフィ・カルは、本も出版しているのですが、それでもこうした形式での展示にこだわっているのは、彼女が多分展示、もっというと、展示されたイメージの中を歩くという行為に魅力を感じているからではないでしょうか。




つまり、ギャラリーの壁に並んだイメージ、浮かぶ言葉の群れ。それらが発する匂いのようなものを感じながら、その空間を彷徨い続けること。
 
そこには個人的な思いの言葉と一緒に、そうした思いを何にも反映しないビジュアルのイメージもちりばめられる。
 
絵画を盗まれた美術に携わる人の本当の気持ちは、写真で映しても分からない。あるいは『海を見る』という動画では、初めて海を見たというトルコの人々がカメラの方を見ているのを、ひたすら捉えるだけ。その思いは全く分からない。
 

『海を見るー老人』
Courtesy of the artist and Perrotin
©Sophie Calle
/ ©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2024 G3622


そして、何より、不和になったまま、永遠に分かれた家族。彼ら彼女らの日記を集めたり、ひたすら記憶を思い返してみたりしても、もう分かり合えない。
 
私たちは、記憶というものを、ある種の目に見えない動画のように、あるいは一連のストーリーのように捉えているところがある。そして、そのイメージの流れを投影するために、パソコン画面、映画館のスクリーン、文字が整然と並ぶ白い背景の本がある。
 
でも、雑踏の中を歩けば、そこには、自分の思いとは別の、人々の姿が並ぶだけ。それはストーリーを創らない。
 
だからこそ、放浪を繰り返していたソフィ・カルは、そんなイメージと記憶が断片となって並ぶギャラリーという空間を好んでいるのではないのでしょうか。
 
それはつまり、自分の中で紡ぎだす言葉のストーリーが解体され、関係がないようであるようなイメージとぶつかり、全く知らない、分かり合えない他人が出会う場所。そんなストリートとして、ギャラリーを捉えているのかもしれません。




そして、彼女の作品が、個人的なものとして閉じていないのは、その展示に一定の審美眼が備わっているからでもあるでしょう。
 
タイポグラフィーの美しさ、額縁や枠のシンプルさ、空間を埋め尽くさず作品ごとに大きさを少しずつ変える絶妙さ、写真の狙い過ぎない構図に、引き締まったモノトーンの色調。『海を見る』では、フランス映画の名撮影監督カロリーヌ・シャンプティエが撮影を手掛けたりしています。
 
ルックスとしてはミニマルでありながら、明晰さも備えており、それと、冷静さとペーソスが混ざった詩的かつ私的なキャプションが融合して、どこか清潔感のある香りがするのです。


『私の母、私の猫、私の父』(『自伝』シリーズより)
Installation photo : Claire Dorn,
courtesy of the artist and Perrotin
©Sophie Calle
/ ©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2024 G3622


つまるところ、私が美術展を好きなのは、自分の足で歩きながら、そうした様々な美の香りを味わえるからかもしれません。
 
その美は、記憶の海の中から浮かび上がったイメージの断片で形成され、写真や絵、きれぎれの言葉となって私たちを通り過ぎる。
 
記憶とは、誰かが不在であるからこそ生まれるものであり、ロートレックは素描で、ソフィ・カルは言葉や写真で、そんな不在の状態から美を創り出す。それこそが美の本質なのかも知れません。
 
 


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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