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音楽と映像が手を取り踊る -傑作MVの楽しさ


 
聴覚に視覚がシンクロすること、音楽に映像が合うということは、素晴らしい快感を伴います。
 
今日は90年代からゼロ年代にかけて創られた、ポップ・ソングの傑作MVについて、語りたいと思います。
 
あまり奇を衒わず、90年代くらいに洋楽を聞いていた人なら多分「ああ、あれか」となるような、定評のあるMVです。さらっと観られてしかも楽しめるという点で、これも大事な映像文化の一つと言えるでしょう。
 



カイリー・ミノーグ『カム・トゥ・マイ・ワールド』(ミシェル・ゴンドリー)2002年


街なかを歌いながら歩くカイリーをカメラがワンカットで追っていくと、また元の場所に戻って、カイリーが二人、また一周すると三人と増殖していきます。それと同時に、背景の人物や建物の窓まで増殖していくことに。
 
未だに、これどうやって創ったの?と思う傑作MVです。いや、CGで合成しているというのは分かるのですが、増殖したカイリーが重ならないように歩いたり、前のカイリーが落とした封筒を別のカイリーが拾っていったり、とにかくタイミングが完璧。
 
相当緻密に事前に準備して考えて撮影しないとできない芸当で、人が見て快感に思うツボを押さえているのがまた素晴らしいです。




ケミカルブラザーズ『スター・ギター』(ミシェル・ゴンドリー)2002年
 


軽快なクラブミュージックに、CGで作成された電車の車窓からの旅の風景が重なる、一見何の変哲もないMV。
 
しかしよく見ていると、車窓の風景が全て音楽とリンクしています。
 
打ち込みのドラムと、電柱や遠くの発電所の煙突が通り過ぎていく様がぴったり合い、シンセやギターの音は、対向電車や丘陵が通り過ぎる様で表し、ブレイクの部分は、ご丁寧に駅で電車が減速して再現する。

ここまで律儀に合わせると、通常は違和感が出てきますが、結構ナチュラルに見られるところが面白い。
 
この2本を監督したミシェル・ゴンドリーは、後に『エターナル・サンシャイン』等で劇映画にも進出しています。しかし、ある意味瞬発芸的な洒落たセンスは、4分間のMVで最も発揮されるようにも思えます。




マドンナ『ヴォーグ』(デヴィッド・フィンチャー)1990年


ちょっと時代は遡りますが、真正面からアーティストが歌って踊る様を捉えたMVにも作り手のセンスがかなり現れます。映画『ファイト・クラブ』や『ソーシャル・ネットワーク』で後に大成したフィンチャーも、元々MVやCMを撮っていた人。
 
ギリシア的な様式美を感じる邸宅やスタジオを捉えるまばゆいモノクロの映像。マドンナのダンスやクローズアップを小細工なしに組み合わせるスタンダードなMVですが、途中で男たちを舐めるように移動して捉えるカメラに、独特のエロティシズムがあるのが美しいです。




ファットボーイ・スリム『ウェポン・オブ・チョイス』(スパイク・ジョーンズ)2001年


踊り繋がりでこちらも。他に誰もいない豪華なホテルのロビーで一人物思いに沈むスーツを着た中年男。音楽がかかりだすと、立ち上がって踊り出し、ロビーを縦横無尽に駆け回ります。
 
踊っているのは『ディア・ハンター』等で名高い強面の名優クリストファー・ウォーケンですが、実は元々ボードビルのダンサーだったこともあり、躍動感が素晴らしい。途中にはCGのワイヤーアクションや吹替もありますが、本人の部分は「魅せる」踊りになっているのが、芸を感じさせていいですね。
 
監督したスパイク・ジョーンズもまた、後に『マルコビッチの穴』等変わった作品を撮る劇映画監督になっています。




ビョーク『オール・イズ・フル・オブ・ラブ』(クリス・カニンガム)1997年


どこかの秘密のラボのような白い背景の場所で、人型のロボットがメンテナンスを受けています。そして、もう一体のロボットが手を差し伸べ、二体のラブシーンが捉えられます。
 
清潔で機械的、SF的なイメージでありつつ、キスを交わすロボット達の質感は驚くほど生々しい。
 
顔や体の一部が能面のようにつるつるだったり、水滴が逆回しで捉えられたり、火花や機械的なチューブがフェティッシュにアップになったりするのが、機械的でクールなエロティシズムを発散しています。
 
「すべては愛に満ちているのよ」と電子的かつエキゾチックな音響を背景に歌うビョークの歌の世界を、見事に体現した名作です。
 
監督したクリス・カニンガムは、マドンナの『フローズン』等、ダークなアートインスタレーション色の強い人で、あまり一般受けはしなかったものの、この一作は私の偏愛の作品です。




80年代にMTVが始まった初期の頃は、まだフィルムで作成され、ある意味物量と豪華な装置を使って映画ライク、もっというと、ミュージカル映画の一場面に、アーティストが歌う様を合わせたような感じが多かったものです。バグルスの『ラジオスターの悲劇』やマイケル・ジャクソンの『スリラー』等。
 



90年代からゼロ年代にCGが導入されると、より尖った表現も可能になり、幅も出てきました。ここに取り上げたカニンガムを除く「MV出身」の監督たちが華々しく長編映画デビューして「新しい風」にもなっていました。
 
ただ、2010年代以降は、あまりこうした表現は、出て来づらいようにも見えます。
 
CD等フィジカルが売れなくなり、音楽産業自体の構造が変わってきたこともあるのでもあるでしょう。MTVのテレビ放送は、今やYou tubeに移りました。
 
80年代当初の試行錯誤を通過し、CDショップとテレビ放送(CM含む)という大衆的な場所が機能していた時代の、メインとはまた違う、強烈な匂いを発散する花々が、こうしたMVだったように思えます。
 
誰もが映像を創れて、即座に世界中の人に届けられる時代で、今後CGやAIを大々的に使った個人的な表現がきっと出てくるのでしょう。そうしたものの先駆けになるような、音楽と映像をリンクさせた驚異の美のレファレンスが、こうしたMVには含まれているように思えるのです。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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