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甘美な苦みの歌 -ザ・スミスの音楽の魅力


 
 
【金曜日は音楽の日】
 
 
ポップ・ソングの魅力の一つに、言葉だけならどきつい表現も、メロディとリズムに乗れば、その印象を全く変えてしまうことがあります。
 
イギリスのバンド、ザ・スミスが残した曲の数々は、極上のギター・ポップ・ソングでありつつ、色々と自意識過剰な歌詞と融合して、今もって面白い音楽になっています。




ザ・スミスは、1982年、マンチェスターに住む青年、スティーブン・モリッシーとジョニー・マーが出会ったことから始まります。

意気投合した二人は、バンドを結成。マーが曲(インスト)を作り、モリッシーがそこに詞を乗せて歌うというスタイルの誕生です。後に、ベースのアンディ・ルークとドラムのマイク・ジョイスも参加。インディーレーベルのラフ・トレードと契約します。
 

ザ・スミス
左からアンディ・ルーク、モリッシー
ジョニ―・マー、マイク・ジョイス



シングル「ハンド・イン・グローブ」でデビュー。すぐに評判を呼び、ファーストアルバム『ザ・スミス』はチャートで2位の大ヒットを記録。インディーレーベルなのに、インディー・チャートではない、全国チャートということにその凄さが表れています。

セカンドアルバム『ミート・イズ・マーダー』はチャート1位になり、最高傑作と名高い『ザ・クイーン・イズ・デッド』も高い評価を受けます。
 
ただし、バンドはツアーで疲れ切っており、モリッシーとマーの間にも緊張が走るようになります。4枚目のアルバム『ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム』をリリースし、1987年バンドは解散しています。




ザ・スミスが注目を浴びたのは、まず何よりも、モリッシーという強烈なキャラと、彼の書く歌詞なのは間違いありません。
 
自意識過剰で、暗く、憂鬱な歌詞。幼児虐待(『サーファー・リトル・チルドレン』)や、自殺(『アスリープ』)を歌ったものもありますが、決してセンセーショナルなものではなく、寧ろいい意味での情けなさ、マッチョとは程遠い「弱さ」があります。閉塞感を歌い、昂揚することのない歌詞です。
 

手を取ろう
太陽の光は僕らをのけ者にするんだ
他の愛とは全く違うよ
別のもの、なぜなら僕らは僕らなんだ
 
手を取ろう
良き人々は僕らを嗤う
そう、僕らは惨めな身なりかも
でも、彼らが決して手に入れられないものを
手にしているよ
 

Hand In Glove


退屈な街に雨が降る
この街は君をダメにしてしまうんだ

William, It Was Really Nothing

酔っぱらって靄の中にいる間は幸せだった
そして僕は今や惨めだ
仕事を探して仕事を見つけた
そして僕は今や惨めだ

Heaven Knows I'm Miserable Now

 
 
モリッシー自身は毒舌と皮肉で知られ、チェルノブイリ原発事故のニュースの後にワム!の曲を流したラジオDJに怒り「DJを吊るせ!」という詞を書いて(『パニック』)物議を醸す等、ある意味注目を浴びたがりの、お騒がせな面があります。
 
ただし、そうした攻撃性が、自分の中でぐるぐる回ってしまうところがあるのが、世にあるこうした「不平不満」を持つ歌との違いでしょう。

そうしたところが、パンクのように派手に暴走する不良になりたいわけではないけれど、現状への不満を抱えている若者に刺さったのは間違いありません。




そして、そんな彼は、バンドにある種の統一された美意識を与えました。
 
シングルやアルバムは、カポーティやジャン・コクトー、アラン・ドロン等、印象的な二色刷りのポートレートに統一し、一目で「これはザ・スミスだ」と分かるものにしました。
 
そして、なよっとした歌詞と呼応するように、ライブのモリッシーは、花束に聴診器、ロイド眼鏡という、ダサいを超越した何とも異様な格好になって、花束を振り回して熱唱していました。
 


自分の中にある情けなさ、人を攻撃したくないけど、毒は吐き出したいそんな思いを、ビザールなモリッシーが代弁してくれる。そんな演出の凄みがモリッシーとザ・スミスをある種のカリスマにしました。
 



ただ、個人的には、ザ・スミスの魅力とは、モリッシーに尽きないと思っています。というより、歌詞を書いて歌うだけで楽器も演奏しない彼を支える三人の力がかなり大きいように思えます。
 
ジョニ―・マーは、澄んでジャングリーなギターを多彩に操り、ポップ・ソングのうま味のある曲を作ります。ルークの太いベースと、ジョイスの良く跳ねるパワフルな組み合わせによるリズム隊は素晴らしく心地よい。
 
そしてモリッシーは、歌詞を抜きにしても、巧みなシンコペーションに、柔らかく伸びのある歌声を持ち、クルーナーとしてロック歌手の中でも屈指の実力者だと思っています。

この四者の音楽性が溶け合って、言ってみれば、ポップ・ソングとしての基礎体力が非常に高い。何度聞いても心地よい響きに包まれています。
 
そうした甘さのあるのびやかなギターポップに、憂鬱でうじうじした苦い歌詞が載ることで、他には類を見ないポップ・ソングが生まれるのです。




そんな彼らですが、ルークは亡くなり、近年モリッシーとマーの確執もかなりあり、2024年時点で再結成はほぼないと思われます。
 
それも、モリッシーが、マーのことを、ザ・スミスの名声を利用していると公開書簡を出して、マーが「SNS時代に公開書簡かよ」と嗤ったり、モリッシーが、マーが新しいベストアルバム作成に同意せず、再結成ツアーに同意しなかったと非難すると、マーもそれを認め、これ以上ベストアルバムを増やす必要はないと思う(実際コンピレーションアルバムが結構あるバンドです)と述べ、自分以外のボーカルがいるツアーにはもう出ないと言ったり。
 
なんというか、メンヘラに絡まれているマーのような感がありますが、実のところ、マーもモリッシーも、結構似た者同士な気もするのです。

マーは元々モリッシーの歌詞や彼のメンタリティが気に入って、一緒に曲を作っていたわけだし、素直に再結成したっていいとも思うのですが、マーがそうしないのは、ザ・スミスのことを聞かれることも、モリッシーと関わることも、もう嫌なのでしょう。
 
まあ、こういうところもザ・スミスらしいなとも思います。私は基本的にロックバンドの再結成は大歓迎な人間で、ギャラガー兄弟が和解したオアシスは大変喜ばしいし、永久に袂を分かったホール&オーツは見ていて悲しい。でも、ザ・スミスには、こんな風にお互い飲み下せないものを抱えたまま、伝説になってほしい気持ちもあります。
 
というのも、結局のところ私たちの中には、決して許すことのできない、分かり合えないもの、他人と連帯も共感もできず、自分自身でも嫌いな部分が、多かれ少なかれあると思うのです。

それを認めないのは偽善だと、かつてモリッシーは何よりも嫌っていました。だからこそ今の二人はある意味非常に「ザ・スミス」的にも感じるのです。
 
彼らの音楽的な遺産は既に十分あります。是非その、極上の甘い音楽で包まれた苦いポップ・ソングの面白さを味わっていただければと思います。





今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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