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アルツハイマー型認知症研究の失敗と100年前からの警告

 カール・ヘラップ (著), 梶山あゆみ (翻訳) 「アルツハイマー病研究、失敗の構造」(みすず書房)では、次のような主張がなされています。
 「アルツハイマー型認知症研究は、その原因をアミロイドプラークという単一のものに限定するという過度に単純化した説に囚われて他の代替モデル(多様性)を全て押しつぶしてきた。そのため袋小路に入り込んで10年~15年の時間を無駄にした」
 現状(2024年)では、レカネマブやドナネマブというアルツハイマー型認知症の進行を30%程度遅らせる薬が承認されています。それでも「失敗」というのはなぜでしょうか?それは、本稿の最後で回答したいと思います。

 本書によるとアミロイドプラークが脳内にたくさんあっても認知能力に何の問題もない人がいるそうです。アミロイドプラークだけがアルツハイマー型認知症の原因なのでしょうか?
 著者もアミロイドプラークが原因の一つであることは否定していません。彼が批判しているのはアミロイドプラークが唯一の原因であるという行き過ぎた単純化です。アルツハイマー病には多くの原因が入り乱れて影響している。アミロイドプラークはそのうちの一つに過ぎないというのが著者の主張です。

 本書に関連して、下に引用するのは理系国立大学の教養課程における科学への向き合い方の授業で取り上げた100年前の哲学者の教えです。

100年前の科学哲学者の紹介

 100年以上前、20世紀初頭に活躍したフランスの哲学者エミール・メイエルソン(Émile Meyerson)の著作「科学における説明」の紹介です。エミール・メイエルソンは、ジャン・ピアジェトーマス・クーンに大きな影響を及ぼした科学哲学者ですが日本ではほとんど知られていません。
 フランス語の原著”De l’explication dans les sciences”は800ページ超の大作です。死語70年を過ぎて著作権も切れています。日本語翻訳も存在しないので肝となる部分だけを紹介します。

 科学においては単純化して白黒をつけるような説明が好まれる傾向にあるが、ほとんどの科学的事象は複雑で例外があるので単純化には気をつけろという内容です。100年以上前の著書ですが今でも成立する主張です。

「科学における説明」の超抄訳

説明の本質 エミール・メイエルソン
 「人間の精神には、異なるものを同一のものに変えようとする打ち克ちがたい傾向がある。我々の感覚によって、直接我々に与えられるものは多種多様である。ところが我々の知性は説明を無性に要求し、この多様性を同一性に還元しようとする。(中略)不合理な多様性を合理的で包括的な単一性に還元する全ての教義、科学、哲学、宗教には我々は深い満足を感じるのである。(後略)」

 「自然科学は何としても同一なもの、合理的なものに変えることのできない不合理な多様性が後に残ると言うことを認めている。例えば不可逆変化。科学は多様性を同一性に変容させようとする努力であるばかりで無く、それはまた生成という不合理な盲目的事実を研究することでもある。科学には二つの傾向がある。ひとつは一般化や同一化への傾向。もう一つは現象の特殊性を認めた上での盲目的現象の探求への傾向である」

 「思考が組織化された諸科学の一つの秩序に従属しないときには、第一の傾向、つまり同一化と一般化への傾向は、あまりにも多くの範囲を認められやすい。その結果は過度の単純化となってしまう。理解しようと焦り、説明を無性に欲求するばかりに、知性は与えられた事実にたいして、それが耐える以上の合理性を押しつけたり、現象の盲目的な多様性の中に実際に存在する以上の同一性を付与してしまう」

 「過度の単純化に対する罰は、その人がすでに所有している幸福を奪い取らないで、もしその者がそんな誤りを犯さなかったら所有するようになったかもしれない幸福を与えないでおくという形を取る。彼らは自分が何かを失っていることに気づきもしないのである。現象を第一原因に帰するものは、科学の何かを知らず、自分が何かを失っていることに気づきもしない

 「自然科学者の例にならって、事象の中にはどうしてもある程度の残滓、不合理性、特殊性があることを認め、それを認めることによって合理的に単純化したいという欲求を妨げない限り、我々は、とうてい人間的諸問題を効果的に処理することができないだろう。一切の病に対し、ただ一つの原因を発見しようとする野心を捨て去ることが肝要である」

アルツハイマー病研究、失敗の構造

 アルツハイマー病研究が「失敗」したことへの回答は、上記の太字の部分となります。もしアミロイドプラーク原因説以外の基礎研究を潰していなければ、レカネマブやドナネマブよりも大きく進行を遅らせる薬ができていたかも知れません。それどころか認知症の進行を停止する、あるいは改善することができる薬ができたかも知れません。

 現在の認知症の治療薬は30%程度進行を遅らせる効果があります。しかし認知症にかかってから死ぬまでに平均10年という現状を3年程度延長することは果たして良いことなのでしょうか?病気の進行を数年遅らせるだけでは、患者本人と家族の苦しみが長くなり、介護を補助するための財政負担も増えるというデメリットの方がメリットよりも大きくなるという見方もできます。

 もし数年ではなく十年単位で進行を遅らせることができれば、認知症が進行する前に寿命が来る確率が大きく上がります。介護の苦しみや財政負担もそれに伴って大きく減ります。さらに認知症の進行を止める、あるいは時計を巻き戻すことができれば、その福音は計り知れません。

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