働くことと未来のイメージ
思い返せば、若い頃はずっと「働く」ということから目を背けていた。
仕事は結婚して辞めればいい。
そう思って真剣に就職活動もしなかった。
自分の適性など掘り下げもしなかった。
流れで働くことになった非正規雇用の職場で(それでも好きなことに関わる仕事だったから有り難かった)、何となく働いていくうちに異動やら人間関係やらで揉みくちゃになって、やっと「自分は一体何がしたいんだろう」と考え始め、モヤモヤする日々が長く続いた。
「自分」を生きることから逃げるために、したいと思い込んでいた結婚も出産も結局できなかった。当時は逃げる理由でしかなかったから、当たり前といえば当たり前だった。でも今は、そんな私のまま、結婚しなくてよかったと思っている。結婚できなかったことは、私が「本当の私」へ向かうための道を歩かされてきた証だとも言える。(今は、本当の私に合ったパートナーはいてほしいと思うし、そのうち現れるような気がしている。)
仕事や恋愛がうまくいかない傍らで、アロマセラピーの勉強をしたり、ヨガのインストラクターの資格を取ったり、アートヒーリングを学んだりした。絵を描いてお金をいただくこともあった。けれど、仕事を辞めてまで、その学んだことを仕事にして食べて行こうと勇気を出すことはできずにきた。
スピリチュアルな本を本当にたくさん読んだ。新しい考え方、捉え方に幾度心が震えたか分からない。冷えとり健康法や心と体を整える方法を色々知るようになって、色んな毒だしのような経験をした。その間、好きだった人(今思えば執着の極み)とさよならをして、家族ともたくさん向き合った。喧嘩なんてしたことなかった家族と喧嘩もしたし、ずっと言えなかったことも言った。家族一人一人が抱えていた重たいものをたくさん見たり聞いたりした。家族がみんな幸せになってほしいと思ったし、そのために自分ができることを考えた。けれど、やっぱり人を変えることはできなくて、私は私を幸せにすることに決めた。それが、私の周りの人を本当の意味で幸せにするのだと感じるようになったから。
自分で自分を幸せにする。
家族のことを考えるのは横に置いておいて、自分に集中した。自分がやりたいことをやり、行きたいところに行った。嘘みたいにワクワクする世界にも時々出会った。
それでも、仕事は変わらずに続けて、使い捨てのモノのように働いている自分に違和感を感じ始めた。自分の自分に対する無価値感がうず高く積み上がっていることに気が付いた頃、ご縁があって新しい職場を紹介してもらい、今の仕事に転職した。
そこは、以前の職場より個人の尊厳のようなものが守られていて、私が私を大事にして働けるような場所だった。興味があった「まちづくり」にほんの少し関わることができた。
でも、一年くらい働いたところで大きな変化があって、働く環境は少し変わってしまった。その変化がいいのか悪いのか、時代に合っているのかどうかは今もよく分からないし、いい悪いの判断は私がしなくてもいいと思っている。
そして、二年が過ぎて、コロちゃんのことが起こった。自粛(自祝)期間にたくさん自分の内側と向き合った。というか、外側に散らされていた意識が、自分の内側の軸に向いたという感覚。それよりも少し前に、私は私を生きると決めていたけれど、無意識に外の世界に揺らされてブレていたようなものが消えていった。今までの社会の中で成功しているような人と自分を比べる必要がなくなった。とても楽になった。そして、自分がこの社会のいわゆる消費的な経済システムやピラミッド構造の中で、自分の大切な生きる時間を切り売りして働いていることに改めて気付かされてハッとした。
消費ばかりで、命とつながる食べるものすら創造していない自分にも気付いて、衝撃を受けた。最近は、衣食住を自分で生み出す力をつけたいと思い、自然農の勉強をしたり、縫い物をしたりしている。もっと形を変えるにしても、楽しく続けていきたいと思っている。
自分に相応しくない(しっくりこない)働き方を長く続けてきてしまったから、雇用されて働くこと以外、どんな風に働けばいいのか今まだ想像がつかない。親世代の働き方も同じようなものだから、より分からないのかもしれない。
今、私の頭で考え付く未来のビジョンは、畑や田んぼで最低でも自分たちの食べるものをつくり出して、空き家を誰か(気の合う人、思いや未来のビジョンを分かち合える人)とシェアして暮らす。そして、衣食住に関わるものやアートや精神的な癒しや拡大につながる何かを人に提供して、それと引き換えに自分たちが生きていくためのもの(お金、食べ物、物々交換でもいい)を手に入れる、そういう循環をつくって暮らすということ。
そのビジョンに向かうために力を貸してくれるような方々が、今までのつながりの中にもいて下さって、振り返ればそれは私の心が向かうところに素直に向かった時に出会っていた。今は焦ったりするけれど、ちゃんと導かれている、導かれてきたのだと信じている。全てが今につながっているし、今のために起こってきたことなのだと。
人に何かを提供して、その分何かを人からいただく、という働き方、暮らし方。それをするためには、自分の中にある力を形にしたり、学びを深めていく必要があるのだろうけれど、それが具体的に何をどうしていけばいいのかゴチャゴチャしてよく分からない。私なんかが一体何を人に提供できるというのか??となる。私なんかが、という気持ちがまだまだある。日々手離していきたい。
少し前に、ある方のYouTubeを見ていて、
「こういう働き方をしたいけど、どうしたらいいか分からない」という質問に対して、その方は「やり方、方法は導かれて分かってくるものだ」というような答えをしていらっしゃって(ハイヤーセルフが連れていってくれるものだ、というような言い方だった)、それが何となく腑に落ちた。腑に落ちたということは、私にとってそれが真実なのだと思う。
こういう働き方、暮らし方、生き方をしたい、というビジョンが何となくでも私の中に有るのなら、それが実現したらどんな気持ちだろうとイメージをして感じていればいい。その後は、その具体的なやり方をあれこれ私の少ない経験と頭で考えなくてもいいような気がした。それよりも、何か直観のようなものを感じ取れるように日々自分軸でいることが大事な気がする。
何かしなければと焦ることで、導かれる流れから逸れてしまうことはよくある。
あまりにも遠い未来の「こうなりたい」にばかり目を向けていると、焦ったり、何をどうしていいか分からなくなって立ち止まってしまう。未来のビジョンをイメージし、それが叶った時の感覚を感じることは大事だから、それをしつつも同時に、今目の前にやってくる直観、インスピレーションをひとつひとつしっかり感じ取って、やること(やりたいこと)をやって、必要のないものを(物理的にも感情的にも)手離していこうと思う。
今の仕事は、やっぱり不自然なことがたくさんあって、当たり前のように世の中の経済システムに乗っかってもいるし、古い組織の構造の中で存在している。それを今はただ冷静に眺めることしかできていない。この違和感を持ちながら、今すぐに辞めるとか動くことはできないかもしれないけれど、こうやって私の中で、未来のビジョンを見ながら準備を整えていけば、タイミングが来たら動ける気がしている。そして、そういうタイミングを引き寄せるようにも思う。甘いだろうか、どうだろう。
自分に今与えられている仕事を肩の上に重く見てしまうと、簡単に辞めることはできないと思う反面、会社なんていうものは、誰かが突然いなくなってもどうにでもなるものだとも思っている。肩の荷はあまり感じない方がいい。誰でもできるし、もっと相応しい人がいて、もっとスムーズに回るようになるかもしれない。それに、これから水瓶座の時代になって、否応なく会社とか大きな組織は自然となくなる流れにもなっていくと思う。そうなっていく時に、できるだけその流れに自然にスムーズに乗っていけるようにしたい。
今は、こんな途中の途中の私です。
私も含め皆さんがより「自分」を生きる世界に近づいていくことを楽しみに、少しずつでも進んでいければと思っています。
読んで下さってありがとうございます。