日本は"源徳"を元にしたデザインをした方がいい
"源徳"を元にしたデザインについて!
■(前提の織田の思想)マーケティングや資本主義経済が漏らしがちなところ
マーケティングとは何かのうちの1つとして、
"欲を土台とした資本主義"において、
その欲のスイッチを押すことだと思っています。
ただ、それが"どんな欲"であるかはすごく大事だ、と思っています。
ほとんどは動物的な欲が根っこにある中、
マズローの5段階で例えると、安心安全、食欲睡眠欲性欲、自己承認欲求、共同体への参画意識(孤独でない)などです。
ただそれらが"自分が便益を享受する"ものにとどまると構造的におかしくなると思っています。
儒教ではより"他者に波及する"考えがベースにあると思っています。
インセンティブ設計のハリボテ度合いを減らしてより本質的かつ波及的になること、
これができていない結果が地球を汚染してる人間の今の哲学の未熟さにあるんじゃないかと思っています。
当時世界で最も人がいてかつ識字率が最も高かった日本は神道な思想と儒教の方法論を組み合わせて、良い国になったと思い、
明治維新から次第にそれが薄れたのでは、と思っていて、
その軌跡をたどりたく、ちょうど出会った考え方がこの儒教と源徳であり
今は儒教の“大学と中庸"、“葉隠武士道"などを読んでいます。
■エンジンの前に必要な哲学(土壌)
なぜ環境を汚染して生きているか?
そのために何が足りていないかと思うかというと、
人や活動を評価する指標だと思っています。
"アメリカンインディアンは7世代先に貢献できるか"を"良き人"の評価軸とし、
儒教では"自らも他者も喜ぶ=徳"を評価する。
お金の量、有名かどうかとかは本質的ではなく、近視眼的な指標であり、それが本質的でないことはみんな心の中では感じつつも、
先人が作ったルールや構造でその方向に流れる仕組みだと認識しています。
■その哲学を支えるエンジンとしての"源徳"
そして、やっと出てきました源徳!
「徳を評価する」方が波及的かつ持続的と思う、というのが前提ですが、
じゃあその土台(人を評価する軸)ができたうえで、何が人のエンジンとなるかというと
これは、他者軸のインセンティブを減らした、根っこのエンジンである源徳
・趣味
・親から子への愛など
・優しくしたくなる気持ち
・教える伝える喜び
など、
誰から言われるでもなくやってしまうような活動な理由のことを"源徳"と言います。
これらをベースにした社会は結果、お金などのコストがかからないで循環を生みやすいと想像していますのと、
例えば白川郷の茅葺き屋根や京都の寺社仏閣などは、
今より人口が少ない時代に成り立っていたと思っています。
その増えた人数がしてることが"文化保存“に向いてない(経済合理性に向いている)んだと思い、
源徳を元にデザインできれば、
行政がお金をかける、という発想以外の解決があるのではないかと思います。
今やってるUIKも創造的人材、起業家の裾野拡大事業も同じ発想にしていきたく、
織田もまさに脳を切り替えている最中です。(まだ精進中で未熟者ですが、先ずは言語化させていただいています。)
■源徳を地元にし、地元に残すデザイン実験その1
そんな中、今回の裾野拡大事業にはいくつか源の徳をもとにしたデザインができているきがしています。
1つは、仕様書に余白があること。
かっちりした仕様書というのは年間のプロジェクトでは相性が悪いと思っており、
VUCAが加速する時代にかっちりしすぎたもので1年間走るのは危険と思っています。
がゆえに、「がちがちにやってやっとKPIを達成できる」というのが危険で、
KPIはある程度余白を持ちつつ、効果が起きることが大事、
ただ、そもそもそのKPI軸が正しいかもやってみないとわからなかったり、
KPIに現れづらい場所(人と人の関係性など)にエフォートを割くことも多いと思っています。
それがなしえるためには、
・いかに地元に熱のあるプレイヤーであるか
・それを選べる愛と現場感と全体観がある審査員(審査員の皆様、本当にありがとうございます!!!)
この点、めちゃくちゃこだわったと思っています。
この「地元に愛」がないプレイヤーがとると、結果お金の切れ目が縁の切れ目になると思っています。
そして今回の仕様書では、KPIとしては起業関心コミュニティ参加者150名、起業家10名(直近1年間起業した者のコミュニティ参画)
ただ、行政としての一番の価値は
「起業やスタートアップが認知され、各所が色んなプログラムをする中、それらをつなぎ、みんなでみんなに届ける」
というのができるのが行政のニュートラルさが故に、
我々はコンテンツクリエイトするのではなく(それは民がすべき)それら全体をMAP化することが一番の本質。
その際、今まで大学生向けは多かったが、高校生にも「起業したいけど周りに話せる人がいない」という人がいると思い、
そういった人たちにとって「他にない場」になれることが今年の我々の役目だと思っています。
ただ、このためには
・まずこの地元を愛しているプレイヤーであること(源徳の中での、仁、”愛”)
→KPIよりももっと多く動こうとする原動力
→本質的なことを民間も行政も共に考えられる
・織田も、行政側としてこのジャンルが大好きで趣味みたいになっている
→仕様書を書く上で、織田がその調整もいとわないし、エフォートを割きたいと思える
→行政の立場も民間の立場も両方口にする中、時に本質的でないことを口にする可能性があるが
それを民と官双方で補える
・また、お金で解決ではない、民間のコミュニティの源徳と波長を合わせて会話ができる
などが今回の事業のエンジンとして、先ず希望を持っているところです。
とはいえ、まだキックオフしたての新規事業。ただ、エンジンは最高と思ってできています。
皆様にも今週中には「こういったことをします!」など
あとこの起業家の裾野拡大などにつながるようなプログラムや組織さんにも今週たくさん、今回の事業について
連絡させていただき始めると思いますが、
我々をぜひ使ってもらえたらと思います。
この言葉を知った後に織田の中で出た問いが「源徳は枯れないのか?」でした!それについて!
■源徳は枯れる、枯れていいものである
結論はこのタイトル通り。源の徳は枯れると思います。
ただ、その枯れた際の環境が大事だと思っています。
「枯れてもいい環境」でやることが大事で、オタクはそうだと思います。
また、枯れてもいいけど、結局好きだったり源の徳なら、また改めて再開するかもだし、
手法は違えど同じ源の徳のエネルギーでまた別のものが出るかもしれない。
だから、オタクとかアーティストとかは強くて、
周りが何と言おうが、必要性がなかろうが「やりたいからやる」し、
別に評価されるかどうかより「やりたい」がある。
■「枯れたらだめ」な環境が邪魔
そして、その「枯れたらだめ」な環境とは何かというと、
「社会の目」「流動性のない指標」「他社の評価」です。
だからアート探究ではあえて成績をつけていません。
ただ、それが社会と接合したほうがお得だから、おまけとして社会に接合するし、
自分がそれを長く続けるためにも「迷惑をかけない」「他社が喜ぶ」をデザインするという話だと思っていて、
お金とかは後からの理由で合って、本当のWHYは「自分がしたいから」であり、源徳だと思っています。
これが逆転した動きは、流動性や調整幅が少なくなり、本質からずれていくんじゃないかと思っています。
■人間とロボットと人間以外の動物
まず人間なので、一生動くことができないのがロボットとの違い。
ただ、既存の観念を超えられたり、手法を流動的にできるのが源の徳であり、
予定調和がないという点でアート的で、かつロボットにはしづらいと思っています。
つまり
人間のロボットとの違いは、「ロボットのようなインセンティブ設計と手法ではなく、流動的に可変する手法が起きえるインセンティブで動く」
他の動物との違いは「そのインセンティブを設計する指標や世界を作れる」
が人間の良さになると思っています。
このちょうど良い余白を作るのは、引き続き織田の神戸市での一番に近い関心幅であり、この2日間はそこに関わる新たなパーツとして
言語化させていただきました。