修行15日目(最終日)
今日15時に、家族が帰ってくる。
洗濯と掃除に余念がない。
午前中も絵画教室展のメール打ち合わせ。そのあと整体。首と背中の凝りが激しい。
家族の生活が再び始まってから、また新たな修行となるだろう。
心穏やかに。そして、絵画のイメージも深めつつ。
今回はっきりわかったこと。やはり絵画制作において、深い瞑想状態からイメージを拾うには、完全に俗世から離れた環境が必要だ。
かといって、今回の大規模な展覧会とは違い、日常の中に30分でも取り入れていけたから、その集中力も強靭になるだろう。
今までだって、その瞑想状態に入れる「時間」はいくらでもあった。しかし「精神」が整わなかった。
「いくらでもあるじゃない?」と妻に言われたところで、常に心が焦っていたり、罪悪感を覚えていたり、自分がなんとかしなければ・・と思っていたら、せっかくの時間を【誰かのために】使ってしまう。
それで良しとしていたけれど、心はますます荒んでいくばかりだった。
今回の15日間の修行を与えてくれたのは家族だ。保育園大嫌いな息子も、さすがに昨日は「保育園行きたいな」と呟いていたという。(にしても、今ごろ?って感じだけど笑)。
そして、今回の展覧会を運営してくれたスタッフ、参加した100名以上の生徒さんのおかげだ。
誰かに支えられて生きている。
それを深く実感し、感謝の念を持っているから、僧侶は徹底して常人には出来ない厳しい修行に迎えるのだ。それは自分の悟りのためではなく、苦しむ人たちを救う強さを持つために。
自分さえ良ければ、という気持ちは消えることがないのが人間だろう。それでも、その気持ちに気づき、受け入れて導くこと。そうすれば、今まで以上に愛を持って、家族や仲間たち、社会や動植物と向き合えるはずだ。
最後に忘れられない「お見送り」を。
この修行が始まる前に、家周りの壁沿いにひきがえるがいた。雨の日で、小さな排水溝の中に隠れていた。そのうちにつがいになって、また1匹になった。
ある朝、ぴくりとも動かなくなった。「死んだのかな」と思って、なんとなく引き寄せられるように間近により、石で軽く突いてみた。すると、パチリッ!と瞬きをしたのだ。。
びっくりした。「生きてる!」って思わず声に出した。
その日の夕方、もう一度その排水溝を覗いた。ひきがえるは同じ姿勢で、ぴくりともしなかった。なんとなく、もう死んでいることがわかった。確かめたが瞬きもしなかった。
僕は、土に埋めた。やがてたんぽぽが咲き、綿毛になり、飛んでいった。ひきがえるの命も空に飛び立ち、また新たな旅に出たのだろう。
絵画において、命の循環が僕自身の永遠のテーマだ。尊いものを見せていただいた。
きっと忘れない。
あの力強い、最後の瞬きを。
おしまい。