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スピリチュアルの「本質」を観た。
お知らせ
⭐︎ワークショップ 4月11日
⭐︎歩く瞑想
高尾山。箱根。伊勢(健脚)など、4月−6月上旬、計画中です。
平日の方が人が少ないので、平日に開催することになります。
⭐︎LIVE「龍の唄」。(with-大塚あやこ-Piano)
大阪 5月8日(予定)
福岡 5月30日(予定)
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この前の京都に出張中、(日記のアメブロ↓)
夜、ホテルで映画を観た。
今回お話したいのは、この映画についてと、スピリチュアルの本質についてだ。
「マグダラのマリア」
ネットフリックスで、4月4日まで観れるので、ネトフリユーザーはぜひ観て欲しいと思う。
イエス・キリストの生涯を描いた映画はたくさんある。それが、史実に基づいたものが多いが、そもそも史実そのものがわかったものではないが、とにかくイエスを扱った作品は多い。
マグダラのマリアといえば「娼婦」として、聖書に書かれているが、あれは後にローマが、マリアを陥れて「女性」そのもの身分を低くするために改竄したという説があるが、俺もそう思う。
なんでって言われても、俺自身、マグダラのマリアという祖霊のエネルギーをリーディングした際に、そう感じたのだ。南フランスで、マグダラのマリアが過ごしたとされる伝説の山の山頂とかに行ったし、ずっと、気になる存在だったのだ。
まあ、それは俺の個人的な意見だが、この映画も、娼婦ではないし、ラストにちらっと、その辺の、ローマとのくだりの説明もある。
そして実際に、マスターや聖者と呼ばれる人は、歴史上すべてが「男性」として伝わっているが、実はそんなことなく、俺の見立てでは、確かに男性の方が数は多いが(基本的に男性の方が探究心があるから)、女性でもマスターと呼ばれる聖者や、悟りを得た覚者はいる。
男性が、宗教を傘に、自身の優位性を保つために、女性の聖者は歴史から抹消されたりしてきたのだ。「聖母」として、「母」という、大きなくくりにして、女性という性の地位を下げる政治的な計略だろう。
さて、今回の記事はやや映画のネタバレを含むので、映画を楽しみたい方は、読むのは映画を観てからにしてくだされ。
ちなみに、有料ゾーンに入る前に、他にも観た映画の紹介。
「時の面影」
こちらも実話らしい。淡々と、静けさが漂いながら、物悲しさと、熱い情熱が交差しながら、全体にとても優しい雰囲気が漂う。そして、上記の「女性」の話ではないが、ここでも男性性の「権威社会」の軋轢という問題もある。
「12モンキーズ 」
90年台の映画だが、当時かなり衝撃を受けた。ブルース・ウィルスや、若きブラッド・ビットなどの名演もさることながら、この脚本は圧巻。
系統としては「ウイルスパニック」の映画だが、SF要素が強く、どんでん返しも最高である。2016年からドラマ化されたが、この映画はすごい迫力だ。
コ〇ナウイルスという誰も見たことのない、年寄りや重度疾患のある人ばかりが亡くなるウイルスが流行っているが、目に見えないウイルスへの脅威というのは、ずいぶん昔から題材にされていた。
お勧めの映画です。
では、ここから本題の「マグダラのマリア」について。
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