ありのままの現実を見ていますか?
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ありのままの現実を見ていますか?
最近、「みかん」を良く食べます。
夏みかん、ですけどね。僕は酸っぱい果物が好きなんで。
探求クラブのメンバーからも、ご自宅の庭に実っていたという夏みかんをいただきました。「鳥がつついて食べ出したのが、食べ頃の合図」とのことで、いい感じに熟成して、甘酸っぱくて美味しかったです。鳥さんはよくわかってるんですね。
さて、みかんの話をしたいわけではなく、そのみかんは、収穫されるまでずっと「木の枝にぶら下がっていた」わけです。
つまり「木の一部」だったわけです。
つまり、我々が「みかん」と呼んでいるものは、みかんの木の“一部分”の、丸い、オレンジ色の、食べると甘酸っぱいもの、です。
しかし、それに「みかん」と『名前』をつけたわけです。
ではここで問題です。問題、というか、一緒に考えましょう。
もし「みかん」という名前がなかったら、それはなんなのでしょうか?
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みかん木の一部というだけで、名前のないもの、なわけです。それはただのありのまま、丸くて、オレンジ色の、甘酸っぱいもの、です。
書いてて思ったけど、オレンジ色、という色だって、名前がなければ、そんな色はあるんでしょうか? 赤とか青とか黄色とか緑とか。誰が色に名前をつけたのでしょう?
そのように、世界は誰かがかつて貼った「ラベル」で溢れていて、それを僕らは「名前」と呼んでいます。
例えば「朝、昼、夜」も、一つの名前であり、ラベルです。それはただの「1日」なわけです。明るかったり暗かったりするだけの1日を、三つにわけてラベルを貼った。
春夏秋冬もそうです。考えてみるとわかりますが、「今日から冬!」とか「明日から夏です!」とか、そういう明確な区切りはなくて、ただ一年の気温や日照時間の変化があり、そこに漠然とラベルを貼っている。
あなたの身の回りで、ラベルの貼られていないもの、つまり「名前」のないものなんてないってことに気づきます。
もちろん、便利です。ラベルがあるから、僕らは社会生活を営めます。
「明日の朝9時に、新宿駅新南口のタワレコのあるビルの前で待ち合わせしましょう!」
と、具体的にラベルを切り分けて伝えるからこそ、朝の9時に合わせて待ち合わせ場所に行けるわけですが、これが、
「明日、会おう!」
だけでは遠くにいる友人と落ち合うことはほぼ不可能でしょうし、
「明日、新宿で朝に会おう」
と言われても、広い新宿を、午前中ずっとうろうろし続けても会える可能性なんてほぼないのでは?
そうならないように、我々は共通認識の「ラベル」を持った。
「みかんを収穫して食べましょう」
「私はりんごが好きです」
「春の満月の日の夜に、桜の木の下で会いましょう」
便利です。おかげでスムーズに物事が進みます。
しかし、この便利さのおかげで、我々は大切なことを見失ってるのかもしれません。
なぜなら「木を見て森を見ず」になってる可能性が高いからです。大きなものを、切り分けて、細分化して眺め過ぎて、元の姿がわからなくなっているのです。
みかんばかり観てて、それが「木」に実るとうこと、植物であり、その木は大地を介して地球の一部であるということ、そして物質としての木を超えた生命であるという事実。
わたしたちは、ありのままの事実を、そしてその真理や真実を観ているのでしょうか?
映し出された影
例えば、映画館に行って、映画を観るとします。
映画は、かつてはフィルム、今はプロジェクターですが、要するに映写機から映像を写す『スクリーン』に向かって光を放射し、観客はスクリーンに映ったその映像を観ます。
みんな「映画を観た」と言います。
しかし事実はスクリーンを観たのです。「壁」を2時間眺めていたのです。
実は、この映画そのものが「ラベル」です。本来は「壁」でしたかなかったのに、そこにまた別のものをこしらえたのです。
ラベルは必ず「どこかに貼られている」ものです。映画で言うとスクリーンに貼られていました。そのラベルが動いたり、人が喋り、物語があるから、それを「映画」と名づけた。
もちろん、映画館に行ったら映画は楽しみましょう(笑)。僕も映画は大好きです。そんなこと考えながら観てません。
しかし、映画と呼んでるものの本当のありのままの姿は、ただのスクリーンに映った光と影であるという事実に着目したいのです。
映画のストーリーはラベルだということを理解してていいし、多分そんなこと考えなくても、みんな潜在的にはそれを知っています。
だって、どんなに物語に没頭して感情移入しても、「これは映画だ」と知っています。映画の中の痛みは自分の痛みではなく、映画の中の誰かの痛み。自分の死や苦しみでなく、映画の主人公の死や苦しみ、悲しみ。確かに観てて苦しくなったり、泣いたりしても、本当に死ぬ人はいませんし、映画やドラマが終わったら、「はぁ〜、面白かった」となります。
映画というラベル、そのラベルの中の「喜び」や「死」や「痛み」というラベル。どこまでも、ラベル。
さて、ではあなたの「人生」はどうでしょう?映画でなくて、リアルなその人生。
あなたの目に見えるものは?
あなたの体験するものは?
生きていると、嬉しい、楽しい、そして痛いし、苦しいし、怖い。だからそれがラベルだなんて思えないでしょう。
でもそれはラベルです。あなたが貼り付けたものであり、ラベルにラベルを張り合わせて、自分の人生を作っています。
ありのままのあなたには「痛い」も「気持ちいい」もなく、ただ「人生」があるだけです。そこに一部分や一箇所を切り取って、良いだの悪いだのを判断し、それらにラベルを貼ったものを、我々は「感情」と呼んだり、「思考」と呼んでるに過ぎません。
しかし、そんなこと言われても「自分は現実を観ています! 自分はありのままを観ています! 」と反論すると思います。当然です。
でもそれは映画を観て、物語の主人公に完全になりきってるようなものだとしたらどうでしょう? 観ている自分を忘れて、スクリーンに意識が入り込んでしまってるとしたら。
自分の人生や、自分の容姿、自分の性格、自分の能力、自分の性質などの、あらゆるセルフイメージ。
全部、あなたが貼ったラベル。ありのままの現実の「スクリーン」に映った『影』だとしたら?
古くはブッタが説いたように、精神世界やスピリチュアリティを探求していくと、自分という存在がラベルだと気づき、自分の人生はある種のストーリーだと喝破する瞬間はやってきます。
ありのままの事実を見ること、それは「目醒め」の一歩です。
もちろん最初に述べましたが、ラベルは便利です。今だって「文字」というラベルがあり、「日本語」というラベルのおかげで僕はこれを書いて、あなたは読んでいるわけです。
ただ、ラベルはあくまでもスクリーンに映った影のようなもの。本当の世界ではないし、本来のあなたでもないということです。
では、本当のあなたはどこにいるのか? 映った影ではなく、放つ光の光源たるあなたは?
ラベルの貼られていないあなたは、いったいどんなあなたなのか?
あなたの本当の姿。あなたというスクリーンは?
あなたの本当のvision。
まずは、そのラベルを一枚、また一枚と、丁寧に剥がすことからです。
あなたはあなたのスクリーンに立ち返ること。そして、そのスクリーンに、何を写すのか?
☆ ワークショップ
つながるからだ、つながるこころ 残3名
聖音瞑想会 大阪 2月24日 残1名
歩く! 山を歩き、五感を開く 残2名
癒しと調律。ボイスヒーリング「調う」 2月18日(日) 残2名
歩く、鞍馬 (残4名)