上がって下がる。だから調う、0に戻る ー 山と瞑想の日々 ー
今日は「高尾山」へ行ってきた。
今年2回目。先月は奥高尾を歩いた。
年末も行っているし、なんだかんだで、山での野外ワークショップや、リトリートイベントの一環で、山は歩く。
しかし僕は基本的には「一人旅」が好きだし、「一人登山」が好きだ。でも、ここ数年は「仲間と行く」「共有する」というフェーズに入っている。
誰かと喜びを共有する。これは数年前の僕にはなかなかできなかったことかもしれない。
しかし、やはり基本は一人。
瞑想もそうだ。目を閉じれば、一人。
一人だからこそ、その向こうに「すべて」がある。
そこは誰もいない。どこでもない。際限はない。区切りもない。肉体がどこにあっても、どこにも行ってない。そしてそこでは自分は何者でもない。自分ってものがいない。
そんな場所が自分の中にあり、自分自身の本性。あらゆる境界線がなくなる。だから、そこは完全な無でありつつ、すべてを有している。
そんな感覚を共有できたらいいなと、瞑想というものを通して、スピリチュアリティの世界を伝えている。言葉や知識ではないから、とにかくただ一緒に座る、一緒に過ごすことで、じわじわと伝わっていく。
3月に、エネルギー解放のワークショップを予定していて、その午前中に、瞑想の会をしようと思っています。人数はそれほど入れませんが、安価で参加できるようにするつもりです。春分の日付近なので、地球が中庸となる日。一緒に体験できるといいなと思ってます。
それはともかく、僕の神秘や精神的探求の原点は「山」と「瞑想」なのだなと、改めて思う。山の中で一人で過ごす時間は、それはまたどこかでじっくり座る瞑想とは違う、動的な瞑想。だからこのnoteのシリーズも「山と瞑想の日々」なんてつけている。
今回の高尾山は、ガツガツと歩いた。
ちなみに「どうして高尾山なの?」と尋ねられたら、「近いから」としか言いようがない。とにかく楽なのだ。山の中に身を置きたくなる、でも、サクッと行って、サクッと帰りたいというわがままぶりも発揮してて、そうなるとやはり便利な高尾山。
しかし、奥高尾はもちろん、高尾山稲荷山コースや、6号路などは、けっこうな山道で、いいハイキングコースだ。
ただ、稲荷山コースは年々整備されて、このような「木道」がちょいちょい増えている。
歩きやすくしているのはわかる。雨の日とかのスリップ防止にもなる。しかし、山好きにはかなり残念な代物だ。歩きづらいし、土の上を歩きたいのに、このような人工物を置かれるのはなんだかな…、と思うが、そう思うなら行かなければいいのだ。ここはお年寄りや、幼い子供も登れるハイキングコースなのだから。
だから稲荷山コースはつまらないと感じていたので、しばらく行ってなかった。しかし、今日は「とにかくガツガツ歩きたい」だったので、コースに起伏もあり、タイムも一番長い稲荷山コースを行った。
一般的には90分〜120分のコースだけど、40分足らずで山頂に着いた。
多分、今まで最短時間で登頂だった。トレイルのように走ってはいないけど、かなりハイペースで、おかげで汗だくになった。
サウナや風呂で汗は流すけど、やはり「動いて出る汗」が一番いい。体の深い部分から、溜まっていたものが出ている感覚がある。
朝は近所を散歩してから、家で軽くサラダを食べたけど、昼は抜いた。山で食べるおにぎりは何よりのご馳走だけど、今回は食事抜き。かなりのデトックスになったのでは?
だからサクッと登って、景色をさっと見て、そのままサクッと降りた。景色は綺麗だったけど、今回は景色を見たいわけではなく、とにかく「山の中」に身を置いて、山の中で「体を動かしたい」という思いだった。
下山中、汗でびしょ濡れの下着で体が冷えそうだったので、道を逸れて人気のいないところで下着だけ脱いだ。しかし、ほぼノンストップだったので、往復で1時間半ほど。
今日の登山は予定はしていなかった。なにせ朝も近所を1時間ほど歩いている。しかし、戻ってサラダで軽く朝食を済ませ、部屋で瞑想をしていると、無性に「自然」が恋しくなり、そしてそこで体を動かしたくなった。
だから瞑想は5分で切り上げて、
「山行ってくる!」
となったわけだ。
ちなみに余談だけど、「木道」を作ったはいいけど、
このように、あちこちに壊れてて危険な箇所がある。これは踏むと危ない。これだったら「木道なんてない方がよくね?」と思ってしまったが、もし行かれる際はお気をつけて。特に降りは勢いがついてるから、踏み込むとぐらっとゆれて、本当に危ない。
降り。そう、山は登ったら降りないとならない。
しかし、これが大事だ。
なぜなら、登ることで体が「偏る」のだ。もちろん、山の中で、自然の中で過ごすのは心地よい。でも、上るという行為はなにかがズレる。そのズレを修正するのが、下りるという行為だ。
これでニュートラルになる。「整う(調う)」のだ。
僕が山に行くのも、瞑想をするのもそうだ。
師が言っていたが、
「人間は1日生きれば1日分ズレる」
と。
その通りだ。日常そのものでも、人はずれる、偏る。まして人に会ったりすると、なおさらズレる。
それを恐れては何もできない。どこにも行けない。
だから、ずれたら戻せばいいだけだ。
しかし、その「戻る」からの「0」の状態。整った状態は、大きく針をプラスマイナスに振れた上での「0」だから、それまでの「0」の自分とは違う。
同じようで、随分と違う。目には見えないけど、何かが成長し、拡大している。
だから、やりたいことをやって、行きたいところへ行って、会いたい人に会って、ずれればいい。我々にはそれを「戻す」力がある。
その戻す力を、最大限に発揮できるのが「山」だったり、「自然」だったり、ただ静かに内潜する「瞑想」だったりする。
あなたが生きていて偏るのは仕方ない。それが地球のドラマ。だから、調えよう。0に戻ろう。そして、その喜びを共有できると、ますます豊かな気持ちになれる。
☆ ワークショップ
つながるからだ、つながるこころ
聖音瞑想会 大阪 2月24日
こちらも参照に(聖音とマントラについて)