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“女”の「ファッション」と「性」について
人間観察シリーズ。
ちなみにタイトルに「女の」とあえてつけてみた。「女性の」と書かずに。
テレビとかだと「女性の〜」って言わないと差別的表現になるって知ってた?だから犯罪者以外には「女」一文字ではニュースとかでは言わないそうな。
「男〜」はいいのにね。でも犯罪者には「〇〇の女」って、差別表現って意識してニュースとかで言ってるわけよね?それってどうなの?逆に女性を差別してるのでは…。
さて、「人体」がいかに面白いか?を前回書いた。今回はまた少し違った趣旨の話。
神の住う神殿である「肉体」。さらにその不可思議でアンバランスなのにバランスを取っている肉体を包む『衣服』もまた、非常に面白くもあり、人間観察には欠かせないものだと思う。
わかりきったことだけど、動物は服を着ない(ペットに着せる人はいるけど)。衣服というのは、動物と人間の違いの一つでもある。そんな衣服というアイテムを見ているのも、とても観察し甲斐がある。
ちなみに、オレ自分がファッションセンスがあるとは言わないし、思ってもいない。人前に出るようになって、色んな服を着て「ケンスケさんはオシャレですね!」なんて何度も言われたことがあるが、俺の服はすべて妻が選んでいる。俺は防寒や機能的なもの、清潔感があれば、基本的にあまりこだわりはない。
しかし、人間観察をしていると、それぞれのファッションに対して、色々と思うことはある。関心するものもあれば、「なんでやねん?」と、ツッコミたくなるもの。
それはセンス云々の前に、きっとなんらかの「主張」があり、その主張なり、意識なりが、衣服を通してダダ漏れしてる人がいるのが面白いのだ。
男性はサラリーマンだと一様にパターンが似ているが、中にはシャツの色やネクタイで味を出したり、スーツのブランドなんかにこだわる人がいるのかもしれない。でも、やはりファッションに対して「女性」を見てる方が圧倒的に面白い。
服には、その人の個性が現れている。
男は私服姿の若い男にしろ、上記した「個人意識がダダ漏れ」的なものを感じる事が少ない。オシャレな男の子を見ても、多くが何かのモデリングか、派手で個性的な風に見えても“逆張り”的な意識を感じる事が多く、女性が持つ「アイデンティティに根ざした」ような意識を感じる事は少ない。
(あくまでもケンスケさんの勝手な印象である。そんなもんないのかもしれないけど、個人的にそう感じるのだ)。
女性と衣服は、深い歴史があると思う。
男性ももちろん衣服は歴史や文化と共にあるが、男は衣服に対しては「肉体」との分離意識で成り立ち、女性はどんな民族でも、肉体と衣服を分けずに、衣服は肉体の延長線上に位置し、そして「個の意思」から放たれた、表現のような印象を受ける。
わかりやすく言うと、男は「自分+衣服」なのに対して、女性は「自分=衣服」という感じかもしれない。衣服“込み”で、自分自身になれる。
ではどうして女性は衣服に自分の意思やエネルギーを注入できるのか?もちろんそこには色んな理由があると思う。
原初時代はどうだったのかを、考えてみよう。
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