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「体験」とはなにか? (無料記事)
先日、この映画を観てきた。「竜とそばかすの姫」
細田守作品は、どれも大好きで、楽しみにしていた。しかしぶっちゃけ「龍」とか言われると、なんとなく流行りのスピリチュアルっぽいノリなのかなぁ?と、やや敬遠していた(笑)
いや、竜(龍)を否定などしてない。こんな歌があるくらいだ。
しかし、映画はそういう超常的な龍ではない。
この映画はインターネットの中の別世界「U(ゆー)」と呼ばれる、いわゆる“仮想現実世界”が舞台になっている。現実の田舎の女子高生が主人公で、彼女が「U」の中で起こすドラマと、現実をリンクさせていくストーリーだ。
映画「マトリックス」から始まり、2018年に公開された、「レディ・プレーヤー・ワン」など(この映画、かなり好きです。ガンダムとか出るし笑)、
高度なバーチャル・リアリティ技術の、近未来SFな世界観を取り入れた作品は多い。
おそらく、すでにこういう技術はあると思う。まだゴーグルを装着して360度視覚を楽しむ「VR」くらいしか一般には普及していないが、大抵この手のテクノロジー技術は、すでに数十年先を行っているにもかかわらず、民間に実用化されるのは小出し小出し…。
これは陰謀論ではないし、少し調べれば『ニコラ・テスラ』のように、うじゃうじゃと科学技術や医療などが世に公になっていないかがわかる。そして実際に「歴史」を見れば予想はつく。
無線もラジオもテレビも電子レンジも原子力(発電)も、初めはすべて「軍用」であり、軍で何らかの理由で(戦争が少なくなったか、もっと便利で強いものが開発された)必要がなくなったものが民間に降りてきているのが事実です。
だから今我々が享受しているテクノロジーとやらも、軍や政府というレベルでは、とっくの昔に開発、実用化されたいたもので、今も我々の知らぬところで、新技術は実用されているだろうと思う。
映画のネタバレになるので、これ以上の内容は避けるけど、「竜とそばかす〜」や「レディプレーヤー…」のように、仮想現実の別空間を作って、生活が現実とヴァーチャルに分けられる日はそう遠くない未来だと思うし(すでに開発されると思うよ)、「ムーンショット計画」という形をすでに政府が示している通り、いずれはすべての人を仮想現実の世界に誘導するという計画が進められていると思う。(ムーンショット計画については、詳しくは動画で。noteの下記に)
バーチャルとはいえ、もしも五感のすべてで、バーチャル世界での感覚を体験できるのだとしたら、そこは確かに誰かの造った仮想“現実”ではあるが、そこを『仮想』と言い切れるのだろうか?
仮想と現実の違いは、何を持って判別するのだろうか?おそらく誰にもわからないのでは?だって、五感を感じて、その世界で考えて、自分の意思で行動できる。それはもはや「現実」だ。
しかし、そもそも「体験」とはなんなのだろう?
これも少し前のことだが、こんなコンサートにも行った。
「醸化する音楽会」
落合陽一さんと日本フィルハーモニーのコラボのコンサートだ。一般チケットがあると知らず、S席のクラウドファンディングで買ったので、Tシャツやらステッカーがついてきた。(どうしてクラファンってTシャツ作るんだろうね…)
ちなみに、このコンサート。
最高だった…!!!
一流の音楽はもちろんだけど、映像、嗅覚、味覚、と言った、ワークショップ的な趣向もあり、まさしく「全身」で味わうコンサートだった。味覚や嗅覚と言われても「は?」と思うだろうけど、とにかくそうなんだ(笑)
ちなみに落合陽一さんも「竜とそばかす〜」の感想が書いてあった。
映画に関しては、「いやいやいやいや〜、そこは無理あるでしょ〜」と、ツッコミは多々あれど、音楽(歌)が重要なポジションになっているので、音の使い方はとてもよかったと思うし、現実と仮想現実のリンクで、カタルシスが起きるという流れも悪くないのでは?好みによるだろうけどね。しかし「エンタメ」としていい刺激になった。
で、俺にとって「芸術(アート)」とは?
それは「リアルタイム」なものであり「ライブ」だと思っている。
それはまさしく「体験」なのだ。作品を「今、味わう」こと。だからこうして俺が映画なりコンサートなりを思い返していることは「アート」ではなく、ただの記憶。アートを体験した、けれど、アートはあくまでもライブなので、今はアートの中にいるわけではない。
素晴らしいアートだった、ということは、そこにはエネルギーがあったということ。そして、エネルギーは「情報」という形で置き換えることができる。つまり、コンサートで「情報」を受け取ったのだ。
情報を知る前の自分と、情報を知った後の自分では、当然「違う自分」になっているわけで、それは情報の量と、情報との化学反応によるのだろう。
しかし情報量は、発信者の情報の量はもちろんだけど「受信側」の受容体の広さ、大きさ、きめ細かさによって変わってしまう。
だから、例えばクラシックやジャズのような音楽って、ある程度素養があったり、経験がないと、なかなかその良さがわからない(俺も十代の頃とかさっぱりわからんかった…)。その受容体が育っていないと、どんな膨大な情報も受け取れず、「ちっとも良くない」と、わからない人には言われるのはそういうこと。
逆に、わかりやすくて、誰でも親しめて、聞きやすい(読みやすい、見やすい)ものは、多くの人の受容体に響くから、あたかも情報量が多いように感じられるが、実はスッカスカのものが多いのだが…。
現代人はインターネットやSNSに慣れてしまい、専門的な文章や、長文を読めない人が増えた。
— Kensuke(ケンスケ)龍の唄の覚醒アーティスト (@mirokukensuke) August 17, 2021
これは進化か?
多分、退化に近いものだと思う。
自分で探るのではなく、
1から10まできっちり説明されたテキストしか読み込めない。
「醸化する音楽界」のコンサートは、全身を総動員しているので、様々な受容体で情報を受け取れるし、例えば映像(視覚)情報をきっかけに、自分の中で別の回路が開いてくので、結果的に、普通に音楽を聴くよりも、音楽そのものの情報の受け取り方も増える。ただでさえ音楽は生演奏のライブだと「良い」と感じるのはそれだ。鼓膜だけで聞くのではなく、生演奏は「全身」の細胞で聞くし、演奏者の「氣」もキャッチできるからだ。
落合陽一さんのこのアイディアやコンセプトには脱帽だ。またぜひ次回も行こうと思う。そして、いい映画を見て、どんどん楽しみながら、自分をアップデートさせていきたい。
さて、ではそれを踏まえて「体験」とはなんなのだろう?
上記した文章で、
仮想と現実の違いは、何を持って判別するのだろうか?おそらく誰にもわからないのでは?だって、五感を感じて、その世界で考えて、自分の意思で行動できる。
と書いたが、五感と思考では仮想現実と現実を判別できないとするのなら、我々は五感や思考を超えた「なにか」が必要なのか?
こちらの動画も参考に。
次回に続きます。
⭐︎お知らせ
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