死ぬかと思った甲斐駒ヶ岳 ー山と瞑想の日々 ー 後編 「一歩、また、一歩」
お知らせ 10月23日(日) 歌います。調います
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こちらの続きです。
七丈小屋を上がったところ「テン場(テント設営場所)」があり、そこにはテントが二つ張ってあり、人がいた。
サングラスをかけた中年の男性に話しかけると、どうやら昨日からいて、先ほど山頂へ行き、戻ってきたとのころ。そしてそろそろ下山すると言っていた。
「昨日は寒くて眠れなかった〜」
と言ってた。10月末の南アルプス。明け方は氷点下だ。
彼に別れを告げ、再び山に入っていく。急登とか、難易度が高いわけではないが、ついついペースが上がってるせいか、あっという間に汗だくになる。
しばらくすると森林限界。森林限界とは英語で言うと「forest limit」。外界からの影響、つまり気温、湿度などの影響により高木が育たず、森林が見られなくなる境界線のことだ。南アルプスや八ヶ岳などは、大体2300mくらいだけど、北海道などではもっと低く、1700mあたりで森林限界になる。
これは山をやってる人にはたまらない瞬間の一つでもある。高い木がなくなり、一気に空が広がり、晴れていれば見晴らしの景観が開けるのだ。
この日は快晴だった。だから絶好のロケーションと言える。
高い標高ならではの強風と、果てしなく広がる大空。遠くまで見渡せる景色の中に、いつも遠くから見上げていた山々が、山肌をくっきりと浮き上がらせて、目前に迫っていた。
冷たい空気を思い切り吸い込む。普段の生活の領域とは明らかに違う空気。それは気圧なのか、実際の空気の質なのかはわからないけど、それは酸素とか窒素とか、そういう物質的なものではない、純粋な「空気」という、我々にとって必要不可欠な存在の純度が、限りなく高いのだ。混ぜ物なしの、正真正銘の地球の空気。
エネルギーに満ちた空気であるが、それは同時に「強い」とも思った。この強さは、植物の持つ「アク」のようなもので、薬にもなるし、毒にもなりかねない。高山病というのは、酸素量低下だけでなく、この純粋な空気にやられるのでは?などと思う。
澄み渡った空気で肺を満たし、再び岩と崩れた白い砂の道を進む。まだまだ道のりは続く。
10月末の山頂付近は、当然寒いのだけど、空が近いせいか紫外線も強い。だから肌に当たる太陽のパワーも純度が高い。これもやはり、薬にもなるが、とりすぎると毒になるものだ。自然というのは、やはり距離感は大事である。
摩利支天、と呼ばれる甲斐駒ヶ岳山頂手前のいただきがあり、修験道の聖域。巨大な鉄剣が、岩に突き刺さっている。
一体誰がどうやって、どうして、あんな巨大な鉄の塊をここまで運び、岩に突き立てたのか?
道の途中では、鎖場やハシゴがあったが、昔はそんなものはない。そんな中で持ってくるだけで大変だろうけど、さらにこの鉄剣を岩に串刺しにするって、どうやったんだろう?
そんな謎を残しつつ、山頂を目指す。もう朝からナッツバーと梅干しと水だけで、動き続けている。この長期の山行は初めてで、さすがに体力的にもペースが落ちてきたが、もう一踏ん張りだ。
いや、そんな疲れもなんのその、美しい空と、むき出しの白い岩と、見事は秋晴れの空の下に広がる神秘的な山の景色に魅了され、疲れはすぐに吹き飛ぶ。
そして、到着。最後は緩やかな稜線歩きのような感じだったので、「あれ?着いた?」という感じだった。正直頭もぼうっとしてたかもしれない。
とにかく、やり切った。名山、霊峰甲斐駒ヶ岳を、伝統的な日本屈指の難関ルートで登り切った。
山頂到着時間は13時ちょっと前くらいだったと思う。休憩を除けば6時間ほど歩きっぱなしだった。
富士山はうっすらと雲がかかっていたが、いつも麓から見上げていた北岳(日本で二番目に高い標高)や、鳳凰三山などの南アルプスの雄大な絶景が、同じ目線か、もしくは下方に見える。
祠に手を合わせ、とにかく無事に辿り着いたことを感謝する。山頂には誰もいなかったので、そのまま景観と、空気を独り占めして、岩に腰掛け、喜びと興奮を噛み締める。
するとすぐに男性の登山客が一人やってきた。僕のやって来たルートではなく、北沢峠のルートから登ってきたようだ。軽く話をしたが、とにかく彼も晴天と絶景に満足のようだった。当然だろう。
この写真は、彼に撮ってもらった。かなりロン毛で、頭にタオルを巻いていたのと、風が強いせいで、山下達郎のようになっているが、とにかく記念の写真である。
山頂は風が強く、汗をかいた体が冷えて来て、じっとしたら寒いくらいだった。30分ほどいただろうか。14時前には下山したと記憶している。
下山は当然登りよりペースは早い。ザクザクと歩き、七丈小屋へ戻った。
とはいえ、これは“登山あるある”だけど、ついつい「登り」でハイペース&ハイテンションにしすぎたおかげで、気力体力のゲージが残り少なくなっていた。いかんせん、飯も食ってないし、こんな長時間の登りは初めてだった。
七丈小屋にたどり着くと、なんと小屋の主が戻っていた。
よかった!これでなんとか食事にありつけるし、今夜はゆっくり眠れる。もし帰って来なかったら、カップ麺だけ食べて、隣の避難小屋のような場所で夜を過ごさないとならなかった。
僕はさっそく宿泊の申し込みをする。
「なに?泊まるの?飯はないよ」
山小屋の親父はかなりぶっきらぼうに答える。他にもいくつか言葉を交わしたが、とにかく態度が悪い。
この親父、実は無愛想で、登山者にも厳しくて有名だと、後から知ったが、とにかく僕は疲れ切っていて、そんな時にこのつれない仕打ち。
(なんだこの態度!ここしか泊まる場所がないってのに、登山者に対して足元見てるのか?)
僕は自分が客商売をやっていたせいか、接客態度の悪い対応されるとけっこうイラッと来る(今はそんなことないが、昔はそうだった)。もちろん、山小屋に接客の良さを求めてはいないが、その時は疲労のせいか、とにかく不愉快だった。
僕はこう思った。この横柄な親父に頭を下げて、この親父の用意した小屋の布団に眠って、この親父に金を払って、サトウのご飯とカレー買って、一本600円のビールを買って…。
考えただけで憂鬱になった。
そして、僕は完全に疲労のあまりに正常な判断を失っていた。
「下山まで、何時間かかります?」
と、親父に聞くと、
「ああ?3時間もあれば着くよ」
とまたぶっきらぼうに答えた。
時間は15時だった。3時間。今から降りれば18時に降りれる、そう思った。
「宿泊はいいや。帰ります」
と態度の悪いおっさんに言い残し、僕は下山を決意した。
今考えるとおかしいのだけど、その3時間というコースタイムは、山小屋の親父のような「超ベテラン」というか、いわば山のプロの時間感覚だ。しかし僕は疲労のあまりか正常な判断を失っていた。
下山してしばらくして、速攻でバテた。完全に体力を失っていた。ドラクエならHPもMPも失っていた。
残っていたナッツバーをとりあえず食べる。
体が鉛のように重かった。その後の下山は、何度も何度も休憩しながら、しかも道に仰向けになって寝そべって休みながら、少しずつ標高を下げていった。
七丈小屋から登山口までの距離を10として、4程度降りた辺りでは体力の限界を超えていた。しかし、今からまた険しい道を登っていく体力もなく、こうなったゆっくりでも降りるしかない。
しかし、さらに予想外のことが起きた。いや、まともに考えればわかるはずだが、この時になって完全に自分の判断が間違っていたと思った。
暗くなって来たのだ。
10月末。17時には日の入り時刻だ。日が落ちたと思ったら、あっという間に暗くなる。
すっかり日の入りのこと忘れていた。だから休憩を何度もとったせいで、時間の割に距離はまったく稼げていない。3時間の下山どころか、2時間経っても半分も行っていない辺りにいた。
深い森だ。人を寄せ付けない山の中。ヘッドライトは持っていた。山小屋に泊まったら、夜にトイレに行ったり、星を見に行ったりするために持って来ていた。
ヘッドランプの明かりで、足元を照しながら歩いた。
恐怖だった。ライトの明かり以外は何一つ明かりのない、樹林帯の闇の中。熊よけの鈴がないことも、今更ながらに恐怖感を増す。
道は一本道だった…、という記憶はある。しかし本当に一本道だったのだろうか?分岐は本当になかっただろうか?見落としてただけだろうか?
不安になる。もしこんな山の中で道を間違えたら、完全に遭難者だ。寝る時ようにフリースを一枚持って来ただけで、寒さに耐えられるかもわからない。
ヘッドランプの電池を何時変えただろう?もしこのライトの電池が切れたら、完全にこの暗闇に取り残される。
暗いから足元に気をつけないと、もし足でも挫いたら動けない。携帯電話も圏外だ。
体力は限界を超えていたが、さまざまな恐怖の中、足早に歩を進めた。ただし暗いので、足元に最大限の気を配りつつ、さらに道のりも慎重に、わずかな分岐のようなところも見逃さないように。
脚、膝、股関節、腰。いろんなところが痛むが、それでも止まるわけにはいかない。体力が限界だろうと、もう一歩、もう一歩、もう一歩、と一歩に集中していく。この一歩が、恐怖を乗り越えさせてくれるし、確実に下山に向けて進んでいる。
しかし、何度も「一歩でも道を間違えたら…」とか「もし転んだら…」「もしランプの電池が切れたら…」など、ネガティブなことばかりが頭を過ぎる。
それを振り払い除けるように、とにかく前へ、前へ、前へ…。
ペースを上げて進んでいくと、しばらくすると微かな音が聞こえた。なんだろう?人工的な音だ…。
さらに近づくと、それがラジオの音だとわかった。熊よけに鈴を使う人もいるが、ラジオを鳴らす人もいる。
とにかく人がいると思うと途端に安心した。もし僕のヘッドランプの明かりが切れても、その人について行けばなんとかなる!とにかくペースを上げる。小走りで進む。
音は大きくなり、前方にライトが見えた。普段は「山は一人になれるのが楽しい」と思っていたが、この時は同じように、下山している人がいるとうだけで、どんなに心強かったか…。
と言っても、その時点でかなり登山道入り口に迫ってはいた。僕はその登山者の後ろを一定の距離を保ちながら、また、もう一歩、あと一歩と、痛みと疲労の足を運んだ。しかし、その前方にいる登山者もかなりハイペースだ。
そして、下山。19時半だった。3時間の予定が4時間半もかかったが、とにかく着いた。
駐車場で、前を歩いてた登山者と話をした。中年の男性で、彼も暗くなるのが予想以上早くてピッチを上げて歩いたという。ただ甲斐駒に日帰りをするのはもう何度目か、というベテランの人だった。
とにかく、なんとか下りた。登山は登ってゴールではなく、下りてゴールだ。
嫁さんには「今日は山小屋に止まらず、下山する」とは電波のある山小屋の付近でメールをしてあったので、とにかく無事に下りたことを伝える。夕食を用意してくれるという。腹が減ってる所の騒ぎではないはずだが、もはや自分が空腹なのかさえもわからない。
車に乗り込む。マニュアルシフトの車を乗っていたが、クラッチを踏む左足がかなり限界で、ギアを変えるだけで全身全霊を込めないとクラッチが踏めなかった。
それともう一つ、初めての体験だったのだけど、むちゃくちゃ寒いのだ。気温ではない。体の芯から寒くて寒くて、歯がカチカチとなって、ぶるぶると震える。
完全なオーバーワークなのに、栄養を摂っていないせいで低血糖になっていたのだと思う。そんなことが起こるなんて自分でも驚いた。手足が震えるので、ますます運転が難しかった。
あまりに寒くて、途中にある日帰り温泉施設に立ち寄った。とにかく、風呂で全身を温め、汗を流した。体重計に乗るとたった1日で3キロ以上減っていた。無理もない、それほどのことをやったのだ。
寒気は完全には取れなかったが、だいぶ落ち着いた。そして家に戻り、食事をとった。
その時に飲んだビールの旨かったこと…。メニューは鶏肉を焼いたものや、ご飯、味噌汁。とにかく旨かった。全身に一気に染み渡った。温かいものを食べると寒気はなくなった。
その日は泥のように眠り、翌日は当然激しい筋肉痛だった。
甲斐駒ヶ岳の登山は、さまざまな恐怖から、自分のネガティブな思考をこれでもかと見せつけられた。しかし、日本屈指のルートを日帰りでやってのけたことは、僕にとって大きな自信にもなった。
それと、何よりもわかったことがある。それは「一歩」だ。すべては一歩なのだ。挫けそうになっても、心が折れそうになっても、一歩。そしたら確実に一歩分前に進んでいる。そして、また一歩。
人生と同じだと思った。夜の山の、ヘッドランプだけの明かりを頼りに歩く道は、当然遠くは見えない。見えるのは「目の前」だけだ。この先に何が待ち受けているのかなんて誰にも見えない。わかりっこない。
しかし、それでも、前へ、どんなに怖くても、前へ。
前へ進むと、また次の目の前の景色が開ける。その繰り返しなのだ。だから我々は、常に一歩を踏み出し続けるしかない。それしか方法はない。
前に出れば、見えるものがあり、近づくものがある。甲斐駒ヶ岳の登山を通して、それを理屈じゃなく、全身で学んだ。
そう考えると、あの山小屋の親父に感謝だ。なぜならあそこでとても心地よい対応をされ、優しくされていたら…。もしくは下山時間も、慣れてない人なら4、5時間はかかる、なんて言われていたとしても、下山は諦めただろう。
もちろん、それで甲斐駒の懐の中で夜を過ごすということも変えがたい体験であったのだろうけど、この生きた学びは得られなかったような気がする。
しかし、あの時に「正常な判断」ができていたとは思えないので、やはり山や自然は、慎重に、敬意を持って付き合おうとも、より心に誓った。
終わり。
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10月10日(月・祝)歩く瞑想の会 京都周辺 満席
10月23日(日)『声』女性性をひらく、めぐる音楽、音体験 東京
11月上旬 探求クラブメンバー限定 リトリート
11月中旬 『声』女性性をひらく、めぐる音楽、音体験 大阪(予定)
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