小説 「蝉時雨」
はじめに。
こちらの短編小説は、いわゆる「書簡体」というタイプで、一人の女性の手紙がそのまま物語になっています。
タイトル通り「蝉時雨」なので、夏にアップしようと思っていたのですが、ざっと書き上げて、しばらく間を置いてから推敲しようと思っていたら、そのまま放置されてて……。そして書類を整理してたら見つけました。
我々の存在と意識における主体と客体、や分離と一体感をテーマにしたお話です。
蝉時雨
大変ご無沙汰しております。暑中のお手紙ありがとうございます。
この頃は私も娘の影響で、スマートフォンでのメッセージのやりとりが多く、このような手紙で文章を手書きすることは随分億劫になってたつもりでしたが、いざ便箋に向かってみると、心が弾むのがわかります。
昔はこうして先生とも何度も手紙のやりとりをしましたね。旅が好きな先生が海外から送ってくださったエアメールを、まるで自分が異国にいるかのような気持ちで、夢中で読んでいたことを思い出します。
そちらは標高も高い地域ですので、随分と涼しいのだろうと思っておりましたが、お手紙を拝読させていただきましたところ、この頃はそちらも随分暑いご様子で驚きました。
私が先生のお住まいに伺ったのは、先生が武蔵野市の一軒家を引き払って移住なさった直後、9年前になりますが、その時の夏の数日間は天国のような涼しさだったと記憶しています。
しかしたった10年ほどで日本の気候がそれほど変わったのだと思うと、これからの未来に不安な気持ちを持ってしまいます。
ご想像つくと思いますが、やはり東京の夏は連日大変な暑さです。
こちらは夜になっても気温がなかなか下がらず、夕涼みという言葉はもはや死語に感じられます。
日中に熱せられたアスファルトやコンクリートの建物が帯びる熱気と、エアコンの室外機から吐き出され続ける熱風が、街全体を灼熱の吹き溜まりへと押し込んでいるようです。
しかし、本格的な夏がやってきたと自覚するのは気温よりも、私にとっては蝉の声かもしれません。
先生もご存知の通り、私も生来の田舎育ちなので、春はカエルの声、夏は蝉時雨、秋は鈴虫の声と、季節季節の生き物たちの声が、体の芯まで染み渡っています。
家の前が小さな公園なので、夏場はとにかく蝉たちが大合唱しています。東京の蝉も田舎に負けおりません。
しかしあまりに暑すぎるせいか、公園だというのに、この頃は日中に子供たちの声が聞こえないことを少し寂しく感じます。
以前は夏休みともなれば、午前中から夕方までひっきりなしに、蝉の声に包まれた子供たちの歓声ともつかない賑やかな声が聞こえていたものです。
昨年就職を機に家を出た上の娘も、大学に通う下の娘も、今となっては遠い昔のようですが、その賑やかさの中にいたことが懐かしく感じられます。
多分ニュースで熱中症の話題ばかり言うからでしょう。誰も外に出たからず、日中の公園は閑散として、蝉の声しか聞こえません。多少は涼しい日もあるのですが、親たちも子供を遊ばせたくないのだと思います。私も今の時代に小さな子供を抱えていたら、実にさまざまな不安や恐れがあったと思います。
今回、お返事はいらないよとのことでしたが、あえて筆を取らせていただきました。いつものように直接お電話でもよかったのですが、電話ではうまく伝えられない気がしたのと、先生がよく仰っていたように、心の中の言葉を外に出すことにより、自分自身を振り返り、思考の整理という意味合いも含めて、手書きで私が感じたちょっと不思議な出来事について、お伝えしたいと思いました。
もちろん、文章にしたところで、うまく伝えられる自信はまったくありませんが、とにかく書いてみてから、書き直すか、もしくはこの手紙を出すかどうかも考えたいと思っています。
その前に、その体験に至る経緯を説明させてください。
昨年の夏は年齢のせいでしょうか、家に閉じこもってばかりいたら冷房病のようになりひどく体調を崩したことがありました。
なのでこの夏は極力エアコンをつけないようにしています。
幸い我が家はマンションとはいえ一階なので、風のある日なら網戸でもそれなりに涼しいことがわかりましたし、緑のカーテンと称して、ゴーヤやキュウリを大きなプランターに支柱を立てて育て、それも功を奏しています。
なのでいつも窓が空いているせいで、先ほどの述べた通り、部屋の中にいても蝉たちの大合唱が響き渡っていて、田舎で過ごした子供の頃を思い出したりします。
私は蒸し暑い午後に、自宅で一人で過ごしていました。夫の方は8月一杯は仙台の方へ出張しており、娘は夏休み中ですが、友人たちと朝から出掛けていました。
本を読んでいました。この頃はまた小説をたくさん読むようになり、昔読んだものを読み返すことが多いです。
(あ、先生の書籍もまた読み返しています。良書は何度読んでもその度に新たな発見があります)
その日の昼食にはサラダと茹で卵と、とても軽い食事でしたが、この頃は子供のように、食後に眠くなることが多く、またその日は午睡するにはもってこいの、心地よい風がそよそよとカーテンを揺らしておりました。
本を持ったままの手をソファにだらりと伸ばして、私は目を閉じました。横になって本格的に眠ると逆に疲れるのですが、こうしてソファや椅子で数分うとうとするだけで、気持ちはすっきりしますので、その日もそうして気だるい午睡に身を委ねていました。
蝉の声だけがひっきりなしに続いてました。それ以外は、驚くほど静かな午後だと記憶しています。いつもなら車も通るし、保育園も近隣にあるので、子供たちが散歩するコースでもあるので、賑やかな声はそれなりにするのですが、この日はあまりに暑すぎるせいなのか、人も車も気配を消し、蝉だけが普段より一層強く、短い命を燃やすように声を上げていました。
私は、家の中にいます。蝉は、当たり前ですが家の外にいます。外から聞こえる、午睡のまどろみに落ちかけた私の耳に届く蝉の声は、不思議な感覚を私にもたらしました。
私から離れた位置で鳴っているはずの声が、私の内側で鳴っているような、とにかく奇妙な響き方となって、私はそれを聞いているのです。
そしてそれはとても心地よいものなのです。蝉と私。室内と室外。私の鼓膜の外側と内側。あらゆる内と外との境目がなくなり、一つに溶け合ったのです。
先生はいつかの講義で、主体と客体についてお話をされていました。出来の悪い私には当時はなかなか理解できないような内容でしたが(今ももちろん理解できているなどと言えません)、この時の私は主体と客体という概念が完全に喪失していたのです。
それがどれくらい続いたのかわかりません。私は朦朧とした眠気の中で、覚醒と睡眠のぎりぎりとのところに意識を保ちながら、その奇妙な感覚の正体を探ろうとしました。
自分でもよくわかりました。このまま眠ってしまってはもちろん、この感覚に驚いたり、より思考を働かせて推理しようとして、意識をしゃっきりと目覚めさせてしまっても、この感覚は失われ、また私という主体と、窓の外の蝉という客体に分離してしまうのだと。
だから私はしばし、その奇妙な一体感に身を明け渡してしました。そう、明け渡す、という表現が最も近いような気がしました。
しかし私の意識は簡単にその一体感から離れてしまいました。なぜならリビングにインターホンの音が響き渡ったからです。
私はその音にはっと目が覚めて、慌てて立ち上がり、玄関へ向かいました。楽しみにしていた自然栽培のお野菜のセットが、今日の午後に頼んでおいたのです。そうです。雪乃さんからのお野菜です。先生の講義で出会って以来、雪乃さんとはずっと親しく、彼女が栃木に転勤されてからも交流は続いております。そんな彼女の育てた野菜は、私の何よりの楽しみの一つなのです。それは蝉の声よりとても大切です。
さて、お野菜の配達を受け取り、私はつい今し方自分が体験していた不思議な感覚を思い出しました。
もちろんこの時にはすっかり普通の自分になっていて、耳を凝らすと窓の外から、蝉たちの声が聞こえています。
私の外側の世界から、主体としての私に、客体の蝉から届く声です。
さっき感じたものが、どうしても白昼夢だとは思えず、こうして文字にしてみましたが、今読み返してみると、どうにも要領を得ていない気がしてなりませんが、お手紙を出すことにします。
先生は昔から不思議な体験が多い方ですので、ひょっとしたらどこかしらで共感できたらいいなと、期待しつつ。
もちろん、ただの寝ぼけた夢の中の出来事だと一蹴されても構いません。そもそも、そちらの可能性の方が高いことは承知しておりますので…。
それでは、随分長い手紙になってしまい、お忙しいところお時間と取らせて申し訳ありません。
さて、私は今日届いたお野菜を、どう料理しようかと、考えるだけで心が弾みます。また先生のご自宅にも、主人と伺いたいと思っています。おそらく秋口になると思います。
終わり
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11月上旬 探求クラブメンバー限定 リトリート 満席
12月上旬 『声』女性性をひらく、めぐる音楽、音体験 大阪(予定)
先日の東京のイベントの、一部LIVE配信しました。(こちらから)
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