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命は誰のものか?

『もし今日が人生最後の日だとしたら、今日やろうとしている事は、自分が本当にやりたい事だろうか?』

スティーブ・ジョブズの名言として、知る人は多いだろう。

今を生きる、自分軸で生きる、やりたいことをやる、などなど、この手の考え方は、ジョブズ以降に、結構意識した人は増えたと思うし、自己啓発や一部のスピリチュアルと呼ばれる分野でも、幅広く扱われる。

俺自身も、常にその意識を持っている。だから、後悔なんて絶対しない!と決めて、『やりたいことは全部やる!』という心持ちで生きている。

でもぶっちゃけ、ジョブズの名言を知っていても、どれくらいの人が「明日死ぬかも?」なんて思っているだろう?

ほとんどの人が、どんな意識はなく、淡々と過ごしているだろう。それほど、死ってなかなかリアリティがないのだ。

俺は子供の頃から、リウマチで体の不自由な叔母が身近にいたし、中学の頃から母が身体障害者になった。祖父の死際の苦しみを目の当たりにしたり、友人がバイク事故で死んだり、親友が自殺したり、自分自身も死ぬような病気を体験した。とにかく、若い頃から「死」は身近だった。

世界のことを知れば知るほど、それは同時に、逆説的に『いかに自分が何も知らないか?』を思い知らされ、この不確定要素極まりない世界は、本当に「自分もいつ、どんな形で、突然この世を去るかなんてわからない。」という気持ちは常にある。

俺は旅が好きで、ここ数年、日本中、世界各地と飛び回ったが“その旅路で死ぬかもしれない”という考えは常にあって、家を出る時、家族と別れる時は、大袈裟に聞こえるだろうが、いつもそういう気持ちだ。その上で、全力で旅を楽しみ、新たな出会いを求める。

この考え方はネガティブ思考と言えばネガティブ思考だが、こればかりは仕方ない。そういう考え方なのだ。俺はそういう人なのだ。だったらネガティブな思考や感情を受け入れて、「自分は何をしたいのか?」に、意識を向ける。だから、俺は旅をする。

話を戻すが、とにかく「人はいつ死ぬかわからない」。これは事実だ。

我が家は夫婦間でも、その気持ちはシェア(共有)している、お互い、いつどうなるかなんてわからないのだから、そのつもりでいようねと。

しかし、ぽっくり死んだとか、事故でぐしゃぐしゃになって即死したとかならいいが、問題は何らかの要因で『死にかけ』になった場合の対処だ。

今回、noteで「#私たちの人生会議」という項目を見つけて、思うところがありこれを書いているが、これを読んだあなたもぜひ、考えて、取り決めて置いた方がいいと思う。

我が家もその辺はよくよく話し合い、「基本的に死ぬなら死ぬで自然に任せる」「延命はしない」「助かるかも?くらでは放置でいい」「植物状態ならそのまま死なせること」などなど、取り決めてある。

人は生き物だ。生き物は生まれて、死ぬ。そのサイクル。これは、生命として、当たり前の権利だ。

人として生まれたのだから、人生というやつを味わいたい。五感で感じて、感情を動かして、感動をして、豊かさや幸せを感じて、愛を受け取り、与える。

しかし、それもこれも、この体と心があってこそだ。だからそれがかなわない状況になったら、さっさと見切りをつけたい。

その際は、あくまでも「こちらの意思」だということ。

俺が死にかけて、植物状態になった時の処置は、「俺の意思」で決めるし、逆の立場なら「妻の意思」で決める。俺の命を、妻がどうこうするとか、妻の命を、俺がどうこう決めることはしないし、したくないし、そもそも、それこそが当然の権利では?自分の命なのだ。

しかし、その権利は、果たしてどれくらいの権利なのだろうか?どれほどの有効性があるのだろうか?


「延命治療だけは絶対にしないでね」

と、母は話していた。最後にそんな話をしたのは、母が亡くなる7、8年前だと思うが、何度かそんな話を直接聞いたことがある。

父もそれを聞いていたはずだが、母は最終的には人工呼吸器と胃ろうという、いわゆる“延命処置”と呼ばれるような機器に取り囲まれて、この世を去った。

この世を去った、という表現をしたが、20年以上病気に伏していて、最後の数年間は認知症のような症状も出て、意思疎通は難しく、その時点ですでに意識も朦朧としてる時間は多かった。「延命治療云々」の話をしたのは、体は動かないが、まだ意識がはっきりしていた頃だ。難病を患う母にとっては、死は遠いものではなかったはずだ。

母はどんどん体が弱り、痰を吐き出す力がなくなり、何度も痰が絡んで肺炎を起こしそうになったことをきっかけに、医師の進められるまま、父は母の気道切開と人工呼吸器を決めてしまった。

俺は電話越しでもちろん反対をした。

「お母さんは延命処置はしないでって言ったじゃないか」

「延命ってわけじゃない。このままだといつ痰が絡んで肺炎になるかわからないんだ。その処置だ」

と父は言った。俺はそれでも「納得できない」「お母さんの気持ちは?」と尋ねたが、

「じゃあどうしろってんだ!このまま何度も苦しんで死ぬのを待つのか?病院だって大変なんだし、お前が面倒見てるわけではない」

と言われ、俺はそれ以上何も言えなかった。

「お母さんは納得した」と父は言ったが、当時の母は朦朧としている時間が多かったので、どんな説得と納得があったのかはわかったものではない。

実際、父にどんな思惑があったのか、どんな「愛」がそこにあったのか、それはわからないし、その経緯はどうあれ、結果として母は自分の死に方を、自分で選べなかったということだ。

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スイスでは「尊厳死」ができる施設がある。言うなれば公に「自殺させてくれる」場所だ。

これに関してはもちろん賛否両論がある。反対する人の気持ちもわからなくはない。しかしこれを「正しい」「間違い」で論じ合っても、答えなど出ないだろう…。

自分の生き方を選べるように、人生は“死に方”を自分で選べる。先ほど、これは“当然の権利”ばりに書いたが、母の例を見ても、実際どうなのだろうか?

上記したスイスの施設なんかができるように、欧米人の価値観では、「自分の命は自分のもの」という感覚が強いが、日本人は少し違う。

これを読むあなたがどう思うかは知らないが、日本に流れる漠然とした「空気感」は、個人の命よりも、「全体」的なものが優先される。

村八分、という言葉があるように、日本は“同調圧力”が強い国だ。日本人の共感性の高さはとても良い部分のはずだが、それが裏目に出ると、そのような形になる。「和をもって尊しとなす」と、聖徳太子の作った憲法は立派だが、和の意味を取り違うと、個人が圧殺される。

あなたが病気で、治る見込みの少ない、非常に苦しみを伴う病状だとしよう。あなたは当然こう思う。

「もう楽になりたい、死にたい」

俺もかつて、毎日死にかけるような苦しみを原因不明の病気で味わったから、その気持ちはわかる。

しかし、あなたが愛する家族が「1日でも長く生きてほしい!」と言ったらどうだろう?

あなたの恋人が「どんなあなたでも愛しているの!お願い、1日でも長く私のために生きて!」と言ったらどうだろう?

あなたの子供たちが「お願い、可能性は0%じゃない!諦めないで治療して!」と懇願したらどうだろう?

この質問に正解はない。ただ、あなたに問うてる。

ちなみに、あなたが仮にそれでも「俺は死にたい!」と思ったとして、それを伝える手段が奪われていたらどうだろう?

「可能性は0ではありません」と医師が言ったら、

家族は必ずこう告げる。「希望は捨てません」と。

医師は、家族の了承を得て、あなたを管だらけにする。日本の医療では、このようなことが頻繁に行われている。

曖昧な言葉を残しておくくらいではダメだ。はっきりと明言し、残しておかないと、日本の医療は基本的に「死なせない」ことが目的なので、当然、胃ろうが必要なら胃ろうするし、気管切開が必要ならあなたに人工呼吸器を取り付ける。

これであなたの死に方が決定される。病院のベットの上。

じわじわと弱り、生命力のパラメーターが、ゆっくりゆっくりと下がり、完全にゼロになるまで、最後の人生を送る。

もちろん、意識があり、ひょっとしたらその中で、何か人生の味わいを見つけるかもしれないから(死ぬ瞬間までは、“生き方”なのだから)、一概にそれを否定はしない。

しかし、あなたがそれを自分で望むだろうか?1日でも、その世界にしがみつきたいと思うのだろうか?

***

明日死ぬかもしれない。しかし、明日“死にかける”かもしれない。その可能性もあるということ。

何が起こるかなんてわからない。だから、その辺の“取り決め”は、しておいた方がいい。自分のためにも、残された家族のためにも。人生会議しておこう。

ちなみに、家族が言う「1日でも長生きしてほしい」なんて、ただのエゴの塊だ。そんな骸のようになった俺のために、もし誰かが苦しむのなら、それは尚更その辺はしっかりと取り決めておかねば。

人は必ず死ぬのだから、そこは悲しくても、乗り越えて、次の一歩を踏み出すしかないのだ。

しかし、俺は母のあの姿を見てて、正直にあの状態で「1日でも生きてほしい」なんて、微塵にも思えなかった。それよりも「早く楽になってほしい」と、いつも思っていた。

そんなことを考える俺が、冷たい息子なのだろうか?その判断は、あなたに任せる。俺と、俺の母の関係は、俺と母にしかわからないのだから、何を思われたところでどうにもならない。

そして、俺の命は、まずは俺の意思の元にあるとして、家族はもちろん、まして医師に預ける気は、基本的にはない。

さて、思いっ切り後ろ向きな話をつらつらと書き連ねて来たが、死という人生のラストに向けて、我々は、今を生きることに、全身全霊を傾けて行きたいものだ。

「死」は、生の一部。その覚悟ができたら、あとはただ、生きるだけ。

#わたしたちの人生会議



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オオシマ ケンスケ
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