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ある男の死に際の回想 #2 最後の絶望

人は死にます。人が死ぬとき、一体どんな心境であり、何を感じて、そして何が起きるのか?

死に直面する一人の男の思考と回想から、「死」について考える物語です。

第1話はこちら。

ある男の死に際の回想 #2


……………苦難もあったが、多くのものを手にした。そして俺は自分のやりたいことをやり、欲しいものを手に入れた。そう思っていた。

だが、今、俺の感じてる気持ちはなんだ?

今まで俺が大切に思ってきたものが、まったく無価値に思えている。

・・・・・

例えば俺は車が好きだった。雑誌にも紹介されるほどの車好きで、さすがに晩年にはだいぶコレクションを手放したが、今も家にはベンツ、フェラーリ、ローバー、アウディの4台がある。厳選に厳選した4台だ。

特に3年前に買ったアウディは限定モデルで、自慢の愛車だった。これを持っているのは世界に有数しかいない。

数日前まで、あまり良い関係とは言えなかった息子に、この車を譲りたい、そして使ってほしいと思ってもいた。遺言にもそう書いてもらった。せめてもの宝物を、大切にしてほしいと…。

だが、今は車のことなどどうでもよくなっている俺がいる。あの遺言を、今から弁護士に言って内容を変えさえたい。車なんぞどうでもいいんだ。俺が息子に残したいものは、車なんかじゃない。

それにしてもこれは一体どういう心境の変化なのだろうか…。

車のことを考えていると、車にまつわるあらゆる記憶を思い出した。
“あらゆる記憶”だ。俺は今、思い出そうとすれば、すべてを思い出せるようだ。

これがまさか、走馬灯というやつなのだろうか…。

若い頃からいろんな車に乗った。いろんな場所を走った。サーキット場で、最高速度220Kmを出した時は小便ちびりそうになった。

初めて買った車。中古のニッサンのセダンだったが、あの時は嬉しかった。まだ付き合い初めの妻を乗せてドライブをした。

高校生の頃、仲間たちとカー情報の雑誌を見て夢を膨らませた。中学生の頃、友達の親父のJEEPに乗せてもらった時は興奮した。

そして幼い頃の記憶を鮮明に思い出した。そして、驚くべきことに気づいてしまった。

そもそも、実は俺は車が好きではなかった。

子供の頃、家が貧乏で、父親は車を持っていなかった。それがとてもコンプレックスであり、家の近くにある大きな家にベンツがあり、いつも俺は恨めしく思いながら見ていたのだ。そんな記憶、まったく覚えがなかったが、今ははっきりと思い出せる。その時の空気の質感や温度や匂いまで覚えている。

そう、俺に取って外車は幸せと成功の証だった。

その根本にあるものは、自分の家が貧乏、いや、もっと言ってしまうと、社会的な敗者としか思っていなかった父だ。

飲んだくれて、すぐに俺を殴り、お袋を殴り、要領の良い弟のことは気に入ってエコ贔屓にし…。

元々は、車があった。三菱の赤い車だった。だが父は仕事は長続きせず、俺が小学校低学年の頃に、車を手放したのだ。

それからなのか、父はことあるごとに成功者や政治家などを悪くいい、だらしのない自分のことをを棚に上げて、とにかく周りの人間をこき下ろした。そしてきっと車は本人も惜しかったのだろう。車の話題が出ると不機嫌になったから、ドライブしたいとか、友達の家の車の話などできなかった。

俺の車好きは、父への恨みと、当てつけ、歪んだ復讐心の一つだった。初めて新車のトヨタを買った時、真っ先に実家に行ったのも、父へ見せつけて、自分が父よりも優れていると証明してやりたかったからだ。

それが気がつくと、動かない体が、途端にドッと重たくなってしまった。

なんてことだ…。俺はただ、そのコンプレックスを満たして、父への復讐心のための「道具」として高級車を集めて、それがいつのまにか、自分の趣味に起き変わっていき、高級車に囲まれていないと、自分のプライドを保てなくなっていた…。

車好きだと自負していたし、疑ったことはなかった。もちろん、好きだとは思う。嫌いではない。だが、確かに心のどこかで、違和感を持っていた。

もう数十年前になるが、車好きの友人がいた。車の話で盛り上がったものだ。

彼は自分の愛車のSUBARUの車を、自らの手で週末のたびに洗車し、ワックスをかけた。そればかりか極力修理や、点検、冬場に遠出する際のタイヤ交換なども自分で行っていた。

俺にはまったく理解できなかった。俺はそんなめんどくさいことやってられず、いつも店に頼んでいたし、途中からはすべて秘書に任せきりだった。洗車なんて、若くて貧乏だった頃にやっただけだ。

あの頃の俺は、「あいつは一台しか持つのが精一杯の稼ぎだし、その分時間を持て余しているんだろう」などと、なんて傲慢なことを思っていたか…。彼は本当に、そのたった一台の車を愛していたのだ。その車で、家族をドライブに連れて行くことが、生きがいだったのだ。

俺にとって、車とは一体何だったのだ?

他にもある。俺が大切に思っていたもの。例えば、40歳の頃に建てた家もそうだ。

品川区の一等地に大きな家を建てた。自慢の家だった。まだ和樹は小学生で、とても喜んでくれたし、妻も当時最新のシステムキッチンを導入したことで、とてもはしゃいでいた。

知人でもある世界的な建築家がデザインして建てたこともあり、俺の家は海外の雑誌にも掲載されたことがあり、完成した頃はよく部下を招いてパーティーをやったもんだ。

しかし、見せかけは豪華な家でも、中に住んでいる家族は、日に日にバラバラになっていた。それをすべて妻や、言うことを聞かない子供のせいにして、俺は家に帰る時間より、仕事と称して、愛人のマンションに入り浸っていた。

一体誰のせいだといえば、全部俺のせいだ。

三人の家族で、どうして何十部屋とある豪邸が必要だったのだろう?人は“座って半畳寝て一畳”というが、現に今、俺の体は病院のベッドに収まり、寝て一畳だ。そしてこの狭い病室に、俺の人生の集大成がすっぽりと収まっているとも言えるのだ。

俺はどうして大きな家を欲しかったのか?

その辺も、よく思い出せる。

ライバル企業のHだ。Hが、当時話題だった豪邸を建てたのだ。それに対しての反抗心でもり、周りから当時煽られたのだ。「Hさん、すごい家建てましたね」と、部下はもちろん、妻までそう言ってた。

「成功者に相応しい家に住め」

と、俺のビジネスのメンターとも言える、今は亡きM社長からも言われたのが決定打となって、俺はその気になった。大きな家に住まないとダメだ!と、途端に劣等感が湧き起こった。

しかしそれまでは、あまり大きな家に興味などなかった。

なぜなら、俺にとって何より大事だったのは「家族」だったのだ。家族でいつも楽しく暮らすこと、それこそが何よりの望みだった。

俺の父と母は仲が悪かった。当然、俺も両親と仲が悪かった。あんな家庭を築きたくなかった。

弟がいるが、弟とも、今は良い仲ではない。なぜならあいつは、昨日まで、いや、ついさっきまでは、社会の落伍者だと思っていたからだ。

そして、落伍者にしたのは、俺自身だった…。

そう、わかっていた。あいつはあいつで、地元の企業で慎ましく働いていたのだ。あいつのペースで。

それを俺が、給料や名誉を餌に、自分の会社に引き入れて、仕事をやらせ、そこそこ順調に行っているので、大きな役職を与えた。

失敗すると予想していた。今回がうまく行っても、さらに大きな難題をふっかけるつもりだった。そして、それらの仕事は見た目は派手でも、失敗してもいいくらいの案件のリスクに計算し、とどめておいた。

案の定、弟は大きな損失を出した。

当時は一緒になって落ち込んで、弟を励ましたが、ある意味狙い通りだった。

なぜなら、それも復讐だった。

弟は、父から優遇されていた。明らかに贔屓されていた。確かに、俺より要領がよかったし、素直で、可愛げのある男だった。顔も母親似で、兄から見ても羨ましいくらい、目が大きく、愛嬌がある可愛さを持っていた。父に似たのか、武骨そうか顔つきの俺とはまったく似ていなかった。

弟は特に何か秀でている部分はなくても、なんでもそこそこ器用にできたし、生来の人の良さもあり、いつも人から好かれ、助けられ、うまくやっていた。

俺は、それがずっと気に食わなかった。だから、やつの無能さを証明し、それを世間と、あいつ自身に知らしめたく、はめたのだ。

以来、弟はすっかり自信をなくし、ローンに追われ、社会的信用をなくし、地方へ引っ越して、木材加工の仕事を細々とやってる。

しかし、認めたくないが、弟はその仕事と環境を、楽しんでいるのだろう。俺は収入と社会的地位だけで弟を負け組と判断していたが、弟は家族と仲良くやってるし、甥っ子も姪っ子も、うちの息子の和樹にも見習わせたくなるくらい素直で、そして優秀な子だ。

あまりに優秀で頭もキレるので、もっと上を目指してほしいと、学費を支援しようとしたが、二人とも国立大に推薦で入ったので、必要とされなかった。

俺が手にしたもの。社会的賛美、実績。車、家、ゴルフ場、愛人たち、行きつけの有名店…。

それらは、俺が求めていたものだったのか?どうやら、完全に違ったようだ。俺はそんなものをほしくて生きていたわけではないのに、それらをずっと、人生における大切なものだと思っていたのだ。

だとしたら一体俺は何十年間も、そもそもこの人生すべて、何をやっていたのだ?

死の間際で、まさか自分の人生の大半を、自分の意志で全部否定することになるとは…。虚しさの極みだ。これほど惨めなことがかつて自分にあっただろうか?

「水田さん。こちらです!どうぞ、お入りになってください」

ふと、妻の声が聞こえて、意識が自分の思考から少し外れた。声は病室の外からだ。

驚いた。かつて、会社を、いや、俺をずっと支えてきた「水田」がやって来たようだ。

それにしてもなぜだろう?部屋の外のことなのに、様子が手に取るようにわかる…。

続く


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