![スクリーンショット_2019-06-10_22](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/12240558/rectangle_large_type_2_d873410b391c98934a6d1f4ff66556ba.png?width=1200)
自分を見失いたくないなら、闇から目をそらさないで。
雨上がりの今日、気温は落ち着いている。
透き通った闇がいつもどおり訪れる。
それでもどこか足りない僕は扇風機をつけてしまう。涼しさは倍になり、居心地は1.5倍くらいになる。
コミュニティという言葉が、社会の先端で踊っている。ビジネスとしてはもちろん、家族でも仕事でもないサードプレイスとしての昨日を始めている。
そういう僕も、コミュニティに所属している。今はうーーん、2つか3つくらいかな。クローズのものもあれば、オープネスなものもある。いかんせん、コミュニティは文化にはまれば大変気分がいい。
なんせ似たような価値観の人たちが集まり、それらを共有することができるからだ。自分の価値観が許される居場所がある。こんなにも居心地のいい場所があるだろうか。
ただ、僕はコミュニティ自身の文化や価値観と常に一定の距離をとることが多い。中心にいることは少ない。なぜかいつも少し遠目からそれらの姿を見ていることが多いなあという印象だ。
なぜかって、うん、なんでだろってずっと思ってたんだよね。その中心に近づくことができない自分をずっと観察してる気分だ。もやもやだ。そしてもやもやは、ふとした出会いにより確信に変わることを君はもう知っているはずだ。
今回のキッカケはこのnoteだった。
そうそう、そうそうそうそうって感じ。どんなコミュニティでも真ん中に近づくに連れてある一定の闇を感じるんだ。それが良いものか悪いものかは人それぞれ。別にそれは重要ではない。
問題はそこには闇があるということを認識できるかどうかだと思う。
どんなに良いコミュニティにいても、必ず発言は尖ってくる。意見は鋭く、それは多くの場合人の心を動かすものになる。しかしそれは、一方で誰かを傷つけながら成長していく。
それに気づけるか気づけないかで、行動を変えることができると思う。あ、今はあんまり近づきすぎないでおこう、とか。あ、今はつるまなくていいやとか。縛られる必要はどこにもない。
これは僕もずーっと感じてきたことなんだ。そのコミュニティの結束が硬ければ硬いほど、なぜか自分の心が取り込まれてしまいそうな感覚になる時がある。
この感覚は僕にとっては驚異だし、中々乗り越えることのできない一つの壁もあるんだ。
だから僕は、狭間でいきるようにしている。AとBの間でBとCの間でCとDの間で生きる。別の価値観を行ったりきたりするのは確かに心をすり減らすけど、いつだって自分が自分でいられる気がするんだ。
みんなで一緒に考えたい内容でしたっ!
それじゃ、また明日会おう〜。
さくら