安冨歩さんの『新装版 マイケル・ジャクソンの思想 子どもの創造性が世界を救う』まえがきを公開します
2016年4月に発売した安冨歩さんの『マイケル・ジャクソンの思想』は、昨年の参院選で安冨さんがれいわ新選組から立候補したのをきっかけに売れ行きカーブが上昇し、新しい読者を得ることができました。昨年末に在庫が切れたのを機に、カバーデザインを一新して「新装版」としてお届けすることにしました。すでに店頭に並んでいますので、ぜひご覧になってください。
『マイケル・ジャクソンの思想』は、無料の電子版音楽雑誌『ERIS』連載時に担当されていた髙橋健太郎さん(@kentarotakahash)から単行本化の話をいただいて、アルテスから世に出した本ですが、安冨さんが衝撃を受けたというブカレストでのライヴ映像には僕も度肝を抜かれました。これほどすさまじい、桁違いの才能をもったミュージシャン/ヴォーカリスト/ダンサー/パフォーマーだったなんて……大ヒット曲をテレビやラジオで聞き流していただけじゃぜんぜんダメだったじゃん……とあまりにも遅きに失したとはいえ、本書のおかげでマイケルの真価に触れることができたのは間違いありません。もしも同じようにのんびりしていた方がいらしたら、まずはぜひともとにかくご一読を![担当:鈴木]
マイケル・ジャクソンは救世主である──はじめに
私はかつて、マイケル・ジャクソンになんの興味も懐いていなかった。もちろん、学生時代に「スリラー Thriller」のショート・フィルム(マイケルはプロモーション・ビデオを、おそらくはチャップリンの映画を意識して、このように呼んだ)に衝撃を受けはしたが、真剣にその芸術に触れたことがなかった。それゆえ、彼の死去のニュースを聞いても、驚きはしたが、それまでであった。
しかし、マイケルのほうが徐々に私に接近してきた。
マイケルの亡くなった年の秋、私のつれあいである深尾葉子さんの娘が通う小学校の運動会の演目に「バッド BAD」が入っていたのが最初だった。そのために皆でYouTubeにアップされていたマイケルのショート・フィルムを見ていると、それに刺激されて、中学生の兄がムーンウォークをやり始めた。
その直後、深尾さんと私とはスタンフォード大学のハルミ・ベフ(別府晴海)教授にお会いするため、アメリカに出張したのだが、運悪くサンフランシスコへの直行便がとれず、ロサンゼルス経由で行くことになった。せっかくだからと、ビバリーヒルズ近くに一泊し、レンタカーで近くのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の中国人学者を、アポ無しで訪問したところ、残念ながら彼は出張中であった。しかもその途中で道に迷って、ヒルズとUCLAとの間の道を、行ったり来たりする羽目になった。
そのときには気づかなかったのだが、実はその道は、瀕死のマイケルが救急車で搬送された道らしかった。そしてあとから考えてみると、どうもこのときにマイケルの霊と知らない間に交感してしまったような気がするのである。しかしそれでも私は、まだマイケルに興味を持たないままであった。
彼の芸術との本当の出会いは、帰国後しばらくしてからであった。
あるレストランで深尾さんと食事をしていたところ、マイケルのコンサートの映像が流されていた。それは金色レオタードで腰をフリフリして何かを訴えるように歌う不思議な姿であった。私はその映像のインパクトに釘付けになったが、その店では「観客の声がうるさすぎるから」という理由で音を出さないで、別の音楽をかける、というひどいことをしていた。
ものすごいフラストレーションを溜めて店を出たら、そのビルの下の階がレコード屋で、そこではマイケルの作品のキャンペーンが展開されており、《デンジャラス・ツアー》のブカレスト公演を収めたDVDが大量に売られていた。ジャケットの写真を見て、まぎれもなくこれだ、と買って帰り、映像を見たのが私と彼の作品との真剣な意味での出会いであった。
その映像を見て、私は深い衝撃を受けた。そして立て続けに何度も見てしまった。
それ以降、私は研究時間のかなりの部分を割いてマイケルの作品やさまざまの映像・資料を集め、解読した。その結果、私は、彼が20世紀最大のエンターテイナー、芸術家、慈善活動家であるばかりではなく、最大の思想家の一人であるという結論に到達した。彼の作品は、その思想を厳密に表現するために、完璧に構成されているように私には見えた。
今の考えをより正確に言うと、マイケル・ジャクソンは、ベートーヴェンに匹敵する作曲家であり、リストに匹敵する演奏者であり、ニジンスキーに匹敵するダンサーであり、チャップリンに匹敵する映像作家であり、ゴッホに匹敵する画家であり、キング牧師に匹敵する非暴力活動家であり、マザー・テレサに匹敵する慈善活動家であり、スティーヴ・ジョブズに匹敵する企業家であり、その上、最も優れた思想家でもあったのである。
その驚くべき能力と影響の深さとを考えたとき、マイケル・ジャクソンに匹敵する人物は一人しか思いつかない。モーハンダース・カラムチャンド・マハートマ・ガンディーである。
マイケルが亡くなってから、それ以前とは手のひらを返したようにマスコミは賞賛の言葉を贈っている。多くの出版物でも同様の美辞麗句が並んでいる。しかし、そのほとんどが彼の思想の深さにまったく言及していないことに、私は強い憤りを覚える。
マイケルの思想は1993年、第35回グラミー・レジェンド賞の受賞演説に端的に表現されている。最も重要なのは、
「子供たちが最も深い智恵に到達していて、そこから創造性を得る方法を教えてくれる」
という考えである。
マイケルは人間社会の抱えるすべての問題の根源を、子供から子供時代が奪われることに求めた。そして、そこから脱却するための道を子供から創造性を学ぶことに求めた。子供を守るのは子供のためではない。人類社会と地球とを守るために、子供の創造性を守らねばならないのである。子供の虐待は子供への犯罪のみではなく、地球と人類社会とに対する犯罪なのである。
マイケルはそのようにして迫害される子供たちの痛みを直接感じていた。それどころか、地球のすべての命に対する迫害を、その全身で感じていた。
それはたとえば「アース・ソング Earth Song」に現れている。この曲はマイケルの「誇大妄想」や「救世主症候群」の表現として嘲笑されるが、とんでもない話である。マイケルは実際に、地球と人類との痛みをその身に感じ、人々に伝えようとしていたのである。彼がペインキラー(鎮痛剤)を常用するようになり、その死の直接の原因を作ってしまったのも、この痛みのせいだと私は考える。
生前、マイケルを「救世主気取り」として攻撃する人がたくさん居た。しかし考えて欲しいのだが、アメリカの貧しい黒人家庭に生まれた男の子が、地球の痛みを感じ取り、世界を救い出す方法を発見し、それを何億という人々に届けることに成功したということは、どう考えても奇跡としか言いようがない。しかも彼は多くの子供の病気を愛によって癒してみせたのである。救世主であることの条件は、奇跡によってそのしるしを示すことである。しかも彼は自分が救った子供の裏切りにより、欺瞞によって生きる人々の誹謗と中傷と暴力の行使を受け、十字架に掛けられた。
その死によってはっきりしたと私は考えるが、もし2000年前に生まれ、苦しみ、死んだ、歴史上に存在したあの人物を「救世主」と呼ぶのであれば、マイケルを取り巻く現象は、ガンディーと同様に、社会的現象としての「救世主」そのものなのである。それゆえマイケル・ジャクソンは救世主だ、と考えるのがもっともふさわしい。
グラミー賞のビデオに見えるように、彼は“Michael, I love you!”(マイケル、愛してる!)とファンに呼びかけられると微笑んでしまい、“I love you, too!”(私も愛してる!)と投げキスを返す。これはファン・サービスなどというものではなく、自然に心からそうしてしまうのである。阿弥陀仏が自らの名を呼ぶ者を誰でも救うのと同じ構造を持っている。“Michael, I love you!”とその名を呼ぶ者をマイケルは、必ず救い上げて、ネヴァーランドに迎え入れてくれる。そのように信じて、なんの問題があろうか。
本書の目的はこのような観点からマイケル・ジャクソンの思想を解読することである。ここでは彼にとって最も重要な思想伝達活動であったワールド・ツアーのうち、《デンジャラス・ツアー》のブカレストにおけるコンサートを軸に話を進めてゆく。
これから展開する議論を念頭に置きながら、このコンサートの映像を見ていただければ、マイケル・ジャクソンの伝えようとした真実が、必ずあなたの魂を震わせるものと確信している。
2016年4月 安冨 歩
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