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VisionLab の VISION HOUSE
本日のおしながき
・人を中心に置く、住宅の設計
・特別な家は要らない。そもそも人の毎日が唯一で特別なのだから。
・進化するAI。人に寄り添う設計は可能か?
・AIによる量産品的住宅の革命的進化への期待
・大切なのは目的。良し悪しがあるとしたら手段の選び方
人を中心に置く、住宅の設計
建築自身に集客力が必要な商業施設や公共施設と違い、住宅設計は主役であってはならないと考えています。住宅は主役にとって最高の「背景」であるべきだと。
そして住宅における主役とは言うまでもなく「そこに住む人」です。
人の背景としての家
季節の背景としての家
毎日の一つ一つのシーンの背景としての家
特別な家は要らない。
そもそも人の毎日が唯一で特別なのだから。
特別な家は要りませんが、ただの量産品的な家では最高の背景にはなれません。家に主役としての特別さは不要ですが、背景としての特別さは必要です。
そもそもそこに住む人が主役で、そこに住む人にはそもそも他の誰とも違う唯一無二の毎日が今この瞬間も存在している。
一人の人間が今を生きている事。それ以上に特別なデザインはありませんので、私はただ、その唯一無二の特別な人生にできるだけ負けずに寄り添える背景を設計したいと思っています。
お察しの通り、、ものすごく要求レベルの高い、答えや果てのない設計テーマです。。特別ではない家を実現するものすごく特別な設計。
それがイチ建築家として生涯追求したい、生涯をかけるに値すると感じている、私のシゴトの中の一つのテーマです。
進化するAI。人に寄り添う設計は可能か?
商業建築や公共建築にとってAIは最高の設計者になり得ると考えています。しかし、住宅設計においてはまだ無理かなと思います。
どちらも理由は一緒です。
AIは【膨大な近似】だからです。AIは人類の知能の集積といってもよい、ものすごい技術です。
さらに、生成AIは今までの集積だけでなく、そこから発想や創造ができるまでに至っている。もはや、人類の知能だけでなく想像力や創造力も含めた人類のあらゆる能力の集合体になっていくのだろうと思います。
しかも計算をはじめとした各種処理能力は人間の限界をはるかに超えています。
しかしそんなAIでも、まだ住宅設計は無理かなと考えるのは【膨大な近似】ゆえです。近似値をものすごい量にすることはできますが、【近似を超えてその人そのもの】になる事はない。
仮に1人の人間とイコールになれたとしても、その時点で膨大な近似ではなくなり、人類の集合体という最大の存在意義を失う事になります。
会社が会社であるがゆえに一人の社員に100%を合わせる事はできなように、AIはAIであるがゆえに一人の人のための住宅設計ができるようにはならない。
すごく簡単に表現すれば、「私はこれが好きだから」ではなく「これが好きな人がデータ的に多いから」という感じです。
AIによる量産品的住宅の革命的進化への期待
その一方で、私は量産品的な家を否定してはいません。むしろ積極的に設計もしています。それは、人の人生や生き方に対して人が良い悪いなど決められないからです。私は神様ではありませんので。
なので、個人としての好き嫌いはありますが設計のプロとしては、自分の狭い世界での選り好みや安いプライドは、自分の成長を止めるだけにしかならないので、そういう意味では自分で自由に判断しない事にしています。
量産品的な家であればまさに【近似値】がポイントですから、人間より前述したAIの方が瞬時に、遥かに、クオリティの高い家を提供できると思います。そしてその可能性は計り知れません。何しろ、全人類の全叡智が瞬間的に総合されて設計できるかも知れませんから。
これはおそらく想像を絶するというか、もはや人間では想像すらできない何かに到達する可能性がありますので、未来がとてもワクワクします。
大切なのは目的。
良し悪しがあるとしたら手段の選び方
誰が住んでもそれなりに住みやすい【平均・量産的な家】と、その人にとって【唯一・最高の背景となる家】と、目的に応じた手段の使い分けが大切になります。
私は、どっちが良くてどっちが悪いではなく、両方正解だと考えて日々設計しています。
一人一人の人生に良いも悪いもないように、その人が目的のために選んだベストな手段が正解。つまり、良い悪いは結果としての家そのものではなくその過程【目的に対する手段の選び方】にあります。
それが、本当の意味で【人を中心に置く、住宅の設計】だと考えております。