ミャンマー人のお祭りに行ってみて、西側諸国の「多様化の失敗」を改めて思いつつ「真の多様性」のあるべき姿を考えてみる。

少し間が空いてしまいました。この数日で暖かいのを通り越して暑くすらなったのはいいのですが、今までが余りに寒かったので、すぐに寒くなるのではないかと疑心暗鬼になって冬物をついつい着てしまいます。みなさんもおだいじに。


「多様化」は本当の意味での「多様性」を目指してるのか?

 ちょっと前に、日本に来てるミャンマーの人達が旧正月を祝って集まる「水かけ祭り」と言う奴に行く機会があったんですよね。この時期になるとたまにテレビでやってるように、タイのバンコクあたりでホースとかまで使って派手に水をかけてびしょびしょにするのでもなく、たまに水持った人が廻ってきて葉っぱとかで水かけて廻ってるくらいで、要は、日本にいる色々な立場…軍事政権時代に迫害を逃れて亡命してきて定住した人達から、今の民主化政権でも軍や仏教界が主導して弾圧されてるような、ロヒンギャに限らない少数民族や異教徒・最近、ブローカーに言葉巧みに連れてこられて、借金背負わされた「技能実習生」や「出稼ぎ労働者」などまで…が来て、故郷であるミャンマー・ビルマの食べ物食べたり話したり歌や踊りを楽しんだりという場で。

 食事しつつ様子を見てて、改めて思ったんですけど、最近、「多様性」とか「多様化」とかものすごく素晴らしいことでそれを認めないと人として正しくない。的な物言いを押し付けて恥じないような人達がのさばってるじゃないですか。言い方悪いけど、アメリカあたりでそれが政治的に正しいとして流行ってるから、日本もそうしないとダメだ、多様化を認めない日本は遅れてる。みたいな話と一緒にされて。

 それはそれで不快だよな。と思ってたのです。多様化というものは、人から押し付けられてどうにかできるものとも思えないし、多様化を素晴らしいという人達が、逆に自分達が認めた範囲からはみ出した人達を口汚くけなしたり・法律などで罰を与えよと運動をしたりするのを、散々見てきたので

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(2025-02-15) 今の情勢が情勢なので改めてお読みいただきたいので、当面の間、全文無料でも読めるようにしておきます。が、できれば「投げ銭購入」などでのご支援をよろしくお願いします!!
※関連記事:


多様化を求める人達が、色々な表現や価値観を枠にはめようと必死でもある件について。

 多様化を素晴らしいという人達が、性表現に限らず色々な表現・例えばタバコに関する表現とかを含めて、「青少年に悪影響がある」「害がある」から取り締まれとか社会から根絶やしにせよ・自分達の目に触れたら絶対にダメだ。と、要は全てこの世からなくせという物言いを繰り返ししてたり、企業や表現者に対して「抗議」を殺到させるように煽ったり・それに乗っかったり、果ては警察やカルト宗教と手を組んで政治家に働きかけて法律や条例を作らせて、「何が害があるか」決める審議会の椅子を自分達で占めたりするような事をやってきたのを知ってる身としては、何という欺瞞・ウソなんだろうか。この人達が言う「素晴らしい多様化」と言うのは、実は「自分達が多様化の範囲を決める」と言うのと繋がっていて、要は「政治的に正しい多様化の外側は存在してはならない」と言う結論にしかならないような、非常に狭苦しくて多様化とは正反対になってるようにしか見えないんですよ。

 アメリカとかでも同じようなことが起こってて、多様化を推し進めてる人達が、色々な意見表明や表現活動に対して攻撃を繰り返し、例えば大人しか買えないようにすでにされているテレビゲームやパソコンゲームのソフトに対して、女性の服がどうこうとかパンティが見えてる見えてないとか、そういう重箱の隅をつつくような事での「糾弾」が相次ぎ、その事で、ソニーのプレイステーションのソフトなんかは、ものすごいおかしなことになっている訳です。


 白人などが着物などの他民族の衣装を着たら「文化盗用」だと攻撃して、謝罪しただけでは済まないような状況に追い込んだり・自分達がテロリズムに結びつくと考える思想や宗教に関する発言をネットでしたら検閲せよと迫り、大学で自分達の考えと反する講義を行う教員はデモまでしてクビに追いやったりする。

 多様化というものを掲げてる人達が、日本に限らず世界の多くの国で、実は多様化とは正反対の方向に社会と文化を向かわせようと・「多様化」を自分達だけでコントロールし続けようと、必死になって「たたかって」しまってる。

※ちょっと本筋から外れてる気がしなくもないのですが、このまとめも示唆的だと思うので:

 これは、当然ながら大いなる欺瞞だと思うのです。ニュージーランドの虐殺事件の動画や犯人の意見表明がバッサリ検閲されて見れなくされたことなんかや、多くの国でイスラム思想や「性」にまつわる表現・性的な趣味の表明のようなものが検閲されてネットでも触れられないようにされたりしてるのも、そう。


多様化は「する」ものではなく「するしか選択肢がなくされる」からする物だと思う。

 多様化と言うのは、「したいからする」ものじゃないと思うんです。「いやでもしてかないとどうしょうもなくなるからする」ものだと。

 文化も価値観も道徳も、倫理観自体が全く異なる人達が、隣りにいる時に、一つの価値観にまとまろうとするような「政治的に正しい多様化」では対立や不信が深まるばかりで、最後には、トランプ政権になる少し前からのアメリカや今の韓国のように「あいつらだけが底上げされてて得をしてる!許せない!」と言う考えや怨念が、それこそ「おり」のように人々の奥底で溜まっていき、それは移民や少数民族や立場が弱いとされてる人達に対する暴力へと繋がるだけではなく、それらの人達から「多数派」への暴力へと繋がり、終わりが見えないような暴力の連鎖や嫌がらせの連鎖という奴に、確実になる。と言うのが、冷戦が終わったあとに起こってる多くの内戦や暴力事件、テロなんかからも見えてくる。

http://www.ssi.or.jp/journal/pdf/Vol6No3_3.pdf (PDFの論文です)

 結局、隣りにいる人がどういう趣味でどういう価値観や倫理観で、どういう思想や宗教を抱えていようが、それは尊重しつつ(悪い意味で言うなら無関心だけど、実際の所多少の関心や興味は示しつつ、合うものは取り入れ合わないものはスルーするようにして)お互いに付き合っていくしかない訳です。そこには、「こうすべき」という答えなんて全く無い。
 言葉が通じなかろうが、価値観などが違おうが、話してみたり仕事を一緒にしてみたり・お買い物をしたり趣味で気があったら一緒にやってみたり、町内会みたいなので一緒にお掃除してみたり。と言う事の積み重ねをやっていく。と言う、非常にシンプルな「覚悟」を、誰もが持っていくことでしか、「多様化」を進めることは無理で、「政治的に正しいありよう」を求めていけば行くほど・それに合わせるために無理をすればするほど、お互いの不信感や対立が悪くなって、しまいには殺し合いや盗みあい・騙し合いになってしまう。

 私達は、アメリカだけでなく多くの西側諸国が陥ってる「失敗」から学んで、本当の意味での多様な社会へと自分の身の回りを持っていくような、覚悟が必要なのだと思います。

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