「古事記」編者太安万侶の墓が発見される (1979年1月20日) / 津田左右吉の史料批判史学 / 一般的な史料批判の起こりは聖書学
「古事記」編者太安万侶の墓が発見される (1979年1月20日) 。
奈良市郊外の茶畑から太安万侶の墓誌が出土。
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津田左右吉の史料批判史学
「古事記」「日本書紀」などにある「神話」に「史料批判」の手法を導入した
古代史家の津田左右吉の「神代史の研究法」(1919年)「建国の事情と万世一系の思想」(1946年) 等を読みました。
🔍 青空文庫にも収録されています。特に「神代史の研究法」は短い文章です。→
ポイントであり、かつ印象的なのは、
「神話を比喩などとして読むのでなく、ありのままに読み取るべきだ」という主張 (「神代史の研究法」第四章) です。
一見、「史料批判的分析」と対極の驚くべき意見で、
「神話を事実として見ること」 を求めていると取れるかもしれませんが [※1]、
実はその正反対であり、
「そういう物語を作り出した権力階級の思想」(「建国の事情と万世一系の思想」第二章の第十四段落 [※2]) を読み取るべきなのだと
津田左右吉は述べます。
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「創作物」であると見る場合、
それが何らかの過去の「事実」を「比喩化」したということですら無く [※3]、
「比喩」などと取ることによって「神話に歴史的事実が隠されている」と解釈することを警戒している感じも受けます。
(「神代史の研究法」第一章の第一段落 「とかく世間ではそれに、我々の民族もしくは人種の由来などが説いてあるように思い」)
(随時更新。1月更新)
※1
「神代史の研究法」第二章のはじめに、津田左右吉は本居宣長が神話を「事実だと信じた」と述べ、
「強いて合理的に解釈」するからそうなってしまうのだと、
幾分レトリカルに批判しています。
※2
ほかに「神代史の研究法」第三章のはじめ =「そこに何らかの意図がはたらいていることを看取しなければならぬ。」
※3
「神代史の研究法」第一章後半で、新井白石の「比喩」的な見方を批判している。
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一般的な史料批判の起こりは聖書学
人文科学などで基本常識となった「史料批判」という手法は、
(誰からも聞いたことがありませんが) 「聖書」(を著作物として) 分析する
近代的「聖書学」から発したものだと私は考えています。
このことがあまり認識されていないのは、
やはり世間一般で「聖書学」の手法 、
あるいは「分析的な聖書学」が存在すること自体への認識が
殆ど無いという点も理由の一つだと感じます。
聖書学の「様式史方法・編集史方法」と似た「双方向的な」分析方法を
文学の分析に生かした著書が、かつてアメリカでベストセラーとなっても
その聖書学との「類比」が聞かれない程、
意外に (?) 「聖書学」は認識されていません。
いずれその方面に関しても書いていくつもりでおります。
史料批判に基づく歴史学を確立したと言われる、ドイツの歴史家
レオポルト・フォン・ランケ Leopold von Ranke (1795年-1886年)は
ライプツィヒ大学で、やはり神学と古典を研究していますね。
🔍 ウィキペディア
「史料批判」はドイツ語だと Quellenkritik と言いますが、
この「Quellen」から私が連想したのは、
「聖書学」における「Q資料 (Q文書) 説」(ドイツ語ではLogienquelle) でした。
「Q資料説」というのは、
新約聖書のマタイ福音書とルカ福音書が、
共通の (存在は確認されてない) 「Q資料 (Q文書)」を参考 (の一つ) として書かれたと想定する説で、
ここでの「Q」はドイツ語で「泉」「出典」を意味する「Quelle」の頭文字であります。
🔍 「Q資料」に関する日本語版とドイツ語版 (「Logienquelle」) のウィキペディア記事
この観点を、「Q資料 (Q文書)」という単語として確立させたのは
ドイツの神学者ヨハネス・ヴァイス Johannes Weiss (1868年-1914年) で、
先述の史料批判の確立者ランケより、後の時期の学者ですが
「Q資料説」として成立するに至る、
「(現存していない) 共通資料を想定する説」自体は
1801年にイギリス人のハーバート・マーシュが発表して以来積み重ねられて来ているので
レオポルト・フォン・ランケも、ほぼ同時期 (19世紀の初め) にそれを学んでいることと想います。
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