自分なりに写真について向き合ってみる
僕がカメラを本格的に始めて、もうすぐ1年になる。
驚くほど早かった。けれど、未だに何を撮りたいのか、自分でもはっきりとは分からない。
それでも、ただシャッターを切る楽しさは確かにあった。
撮影を始めた頃から、大好きな車を撮るのは楽しい。
車のフォルム、その光沢。
光の角度や背景によって、同じ車でも表情が変わる瞬間は、見ていて飽きることがない。
ガジェットもそうだ。
カメラを持ち始めてからというもの、最新のテクノロジーが集まったガジェットの形やディテールにも、自然と目が向くようになった。
手のひらに収まる小さな機械の中に、無数の機能が詰め込まれている。
それを写真に残すことで、自分の手元にある「未来」を映し出しているような感覚になる。
でも、それだけじゃない。
美しい風景や自然にも、心惹かれることが多い。
広がる空や山々、そこに風が吹き抜ける瞬間をカメラで切り取る。自然が見せる一瞬の輝き、たとえば夕焼けの時間や、霧に包まれた朝の風景。
それらは一度カメラに収まってしまうと、まるで永遠に続いていくように思える。
花もまた、僕にとって特別な被写体だ。
揺れる花々の動きが好きだ。
強風で吹き飛びそうなくらい軽やかに揺れているかと思えば、次の瞬間には静かにたたずむ。その静かな瞬間を撮ることが、僕の小さな喜びになっている。
動物も同じ。
飛び交う鳥や虫たちは、思うように撮れない。
その不規則な動きに振り回される。
でも、その一瞬一瞬が「撮りたい」という衝動を生み出す。どこか自由で、予測できない瞬間にシャッターを押すのがたまらない。
これらすべて、僕にとって大切な被写体たちだ。
見るのも、撮るのも好きだ。
でも、自分の腕を誇れるわけではない。
人に見せられるような写真か、と言われると、正直自信はない。自己満足の域を出ていないのかもしれない。
でも、楽しいから続けている。写真を撮る理由なんて、それで十分だと思っていた。
しかし、最近ふと考えた。
「それだけで本当にいいのか?」と。
自己満足だけでは、写真を見てもらえない。
たとえ趣味であっても、撮った写真を人に見てもらうならば、やはりテーマが必要なのかもしれない、と。
最近は、あえて題材を据えてカメラを構えることを試している。
例えば、「季節」をテーマに撮るなら、その季節にしかない風景を探す。花が咲く瞬間や、葉が落ちていく過程。そういったテーマがあることで、写真にまとまりが生まれてくる気がする。
何を撮りたいかが定まらない僕だからこそ、テーマを決めて撮ることで、新しい発見があるのかもしれない。
とはいえ、肩の力を抜いて気軽にシャッターを切る楽しさは、これからも続けていきたい。
題材にこだわる撮影と、自由気ままに撮る撮影。
どちらも楽しめることが、写真を続ける理由になるんだと思う。