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わたしは、「届ける」と決めた。

日々、頭の中からあふれ出してこぼれそうになる言葉たちをどのようにおさめようかと考えていた。


わたしは、人と言葉でつながることがすきだ。

自分の気もちが文字となって綴られていくことがすきだ。

人の頭の中が文字という記号を通して、わたしの心の中に入ってくる瞬間がすきだ。


基本的に人がすきなんだと思う。常に触れていたいと思う。

言葉はどこにいてもその人に触れることのできる最大の武器だ。


でも、なぜか毎日私の頭の中からあふれそうになる言葉、つまり「想い」を「届ける」ことができなかった。

できなかったというより、躊躇していた。


学生時代にみんなに同調しないといけないんだと思うようになってから、どこか私は自分のいつもあふれ出そうなくらいのたくさんの「想い」を封印してきたのかもしれない。

その場に合わない言葉たちは、不必要であり、流され、はかなく消えていく。そんな雰囲気にわたしは「想い」を言葉にして届けることが無駄で、こんなに身を削る覚悟で出す言葉が、放たれた瞬間に空気よりも軽く消えて行ってしまうことに、何かあきらめていたのだと思う。


わたしは、俗にいう「成功者」である。名誉や地位、そんなものではなくて、世間一般的に言われる「モテる」性格だ。


「まっすぐで、ずるいことはきらい、明るくて、楽しくて、ユーモアもあって、人に愛される。」


実際そうだと自分でも思う。努力してそうなったわけではない。

それが世間一般的に「モテる」と言われる性格なのかもわからないが、わたしはそう育った。そう育ててくれた親もそうだけど、なにより自分と向き合った結果だ。自分で自分を幸せにすることを覚えた。


でも、いつからだろう、いや、明らかに学生時代だ。

私のこの性格が「つまらない」のか「うらやましい」のか、同調圧力が生死をわけるあの時代に、私は自分の言葉を自分で封じてしまった。

取り繕った自分を作り上げてしまった。


やっと解放されたのだ。自分をがんじがらめにしていた呪縛から。

自分で解放したのだ。

そして、解放してくれたのも、やはり「言葉」だったし、人なのだ。

人が嫌い。だけど人がすき。人のそんな不完全さに惚れたからわたしは結局人に依存しているのだろう。

一人で強くいようとするときよりも、人によりかかることを知った今の方がわたしは強くなったと思う。

そんな人たちに出会えたこともわたしがわたしを解放できたからなのだろう。

まだ、大人を信じていない。自分を守ろうと自分と向き合わず人を攻撃する人はわたしの防衛本能が近づかせない。

その標的になってきたからだ。人の嫉妬で何度も自分が自分をわからなくなったからだ。


毎日、あふれ出しそうになる言葉をここになぜ綴ろうと決めたのだろう。

noteを毎日見ながら色々な人の「言葉」に幾度となく救われたからであろう。

noteでみんなが綴る文は決して、消費を求めるものでもなく、ただひたすら自己と向き合い自己を表現する、自己満足な文でしかない気がする。

だから救われたのだ、私に向けられていないことに。


わたしもただひたすら書こうと思う。自己満足のために。

誰かがわたしの自己満足に救われるなら、+aのしあわせ。

それでいい。