繊細なわたしは「強い」らしい
「強くて繊細」
昨日、会話の流れで母が小学生の頃の通知表を出した。
小学校5、6年生の頃のものが残っていてうきうきしながらまっさきに所見を読んだ。
そこに書かれていたのが、「強くて繊細」ということばだった。
何度も読み返した。「強い」と「繊細」が共存しうるのか。
ふたつの言葉を離したりくっつけたり、何度も読解しようとした。
わたしは、むかしから繊細である。気づいたのは最近。
HSPなのかどうかはその基準が定かじゃないし、わからない。
ただ、果てしなく、人の心と表情に敏感である。果てしなく。
昔から八方美人だと言われた。
親が怒った瞬間、誰かが傷ついた瞬間、あざ笑う瞬間、嫌悪する瞬間、恋心を抱かれる瞬間、すべてを感じ取る。
いや、感じ取るんじゃなくてその瞬間を前に予想がつく。
そして、わたしは、それを自分のものとして吸収する。
目の前の人が悲しんでいればわたしまで悲しい。むしろ本人よりも悲しい。
嬉しがっているときはわたしもうれしい。むしろ本人の2倍うれしい。
いいことなのか。もちろんいいこともある。自分以外の人生を自分のことのように経験することが得意だ。
ただ吸収するばかりもつらかった。はけ口がないのだ。そのため込んだ感情を吐くには、あまりにも他人を思いやりすぎるのだ。
わたしの抱く感情が自分のものなのか、他人のものなのかもわからない。
ただ吸収するのだ、自分のものとして。そして引きずるのだ。
だから相手と違うだろう意見や思いを言うことが昔からできなかった。
私自身が傷つくのも怖いけど、それ以上に相手が「いやだ」と思う感情が怖いのだ。それを読み取って吸収してしまう自分が怖いのだ。
ああ、弱い。はてしなくもろい。
ずっとそう思ってきた。この世に存在するわたしの目に、はっきりと浮かぶ感情たちにおどらされるのだ。
はねかえすことができない。なんて弱いのだろう。
そう思ってきた自分が「強くて繊細」という言葉に再会したのだ。
周りの状況をよくしようと率先して前に進んでいくのがわたし。
自分が汚れることを恐れず、ずぶずぶどこにでも足を踏み入れるのがわたし。
男女隔てずみなに同じように接して理解しようとするのがわたし。
ああ、わたしはさらけだしてるのか。だから吸収するのだ。
繊細だから人を理解できるのか。
人の気持ちが自分のものになるから、自分のように相手のために行動できるのか。
繊細だから色々な文、映像、会話、人とのふれあいから感じ、経験するのか。だから強くなるのか。
「強くて繊細」
共存しうるのだ。弱いから強いのだ。