ディベート甲子園「名講評・判定」スピーチ“列伝” 

はじめにー渡辺徹(全国教室ディベート連盟)ー

選手の皆さんはよくご存じの通り、ディベートという議論の形式は、もちろん肯定側・否定側の立場に立つディベータ―の論戦だけで成り立つものではなく、それを第三者の観点から評価する立場の人、すなわち「審判」がいて、初めてなりたつものです。全国教室ディベート連盟が行っている教室ディベートでは、特に審判からの講評・判定スピーチは試合の「勝ち負け」について納得のいく説明ができたか、さらには、どのような学びを生徒諸君に提供できたかという点で、注目を浴びます。

 私は、教育ディベートの実践と研究の機会を提供する団体を運営する立場につき、さらには、CDSという、ディベートの新たな可能性を模索する団体を関わってから、痛切に感じるようになったことがあります。それは、ディベートの普及とその面白さの訴求には、ジャッジの育成が不可欠だということです。議論を「評価する」人材の育成と言ってよいでしょう。

 そんな中、久保さんとの会話の中で、せっかくディベート甲子園全国大会の「講評・判定スピーチが公表されているのだから、これを面白い読み物に仕立てつつ、ジャッジ育成の教材にしたらどうか?」というアイデアが生まれました。

こうして、ディベート「名講評・判定」スピーチ“列伝”の運びとなりました。まずは気楽に、楽しくお読みいただければ幸いです。
 

 ジャッジ列伝の構成ー事務局より

栄えある第1回の講評・判定者としてご登場いただくのは、もちろん渡辺徹さん。ディベート甲子園の高校の部決勝の講評では、松本茂先生から引き継いだ「ディベートって・・・」という例のセリフで、皆さんよくご存じでしょう。
 この読みものは、以下のような構成になっています。
 
「第一部」は、ディベート甲子園の試合のうち、「講評・判定」スピーチを、講評者ならびに全国教室ディベート連盟のご了承を得て、文字起こししたものです。なお、スピーチの言い間違いなどは、適宜文字起こしの際に適宜修正を行っていますので、音源そのものの忠実な再現ではないということを、あらかじめご了承ください。

「第二部」は、講評判定について「解説・批評」するコーナーです。第一回では、講評・判定者への渡辺徹さんへの編集部(久保)からのインタビューという形式で行いました。1)講評・判定で心がけていることとは? 2)講評で伝えるべきこととは? 3)実施時の感想・ハプニングなどは? などをお尋ねしながら、講評・判定のスキルを上げていきたい人のヒントを、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
最後に、「おわりに:謝辞」で、ご登場いただいた渡辺徹さんにお言葉を頂いて、締めくくりです。

ジャッジ列伝の目次

第1回 ジャッジ講評列伝 渡辺徹さん
第2回 ジャッジ講評列伝 竹久真也さん
第3回 ジャッジ講評列伝 田中時光さん
第4回 ジャッジ講評列伝 天白達也さん
第5回 ジャッジ講評列伝 榊原陽介さん
第6回 ジャッジ講評列伝 志村哲祥さん
第7回 ジャッジ講評列伝 神永誠さん

終わりにー久保健治(九州大学大学院、全日本ディベート連盟、日本ディベート協会)


「ジャッジの講評と落語家の芸は似ているんじゃないか」
そんな私のつぶやきに深く感銘してくれた人がいます。全国教室ディベート連盟の監事として、また選手の皆さんにとっては何よりもディベート甲子園の決勝主審として、長きにわたりディベート教育に大きな貢献をされてきた渡辺徹さんがその人です。普段から、私は徹さんと呼んでいたので、ここでは徹さんと書かせてもらいます。

ご存知の方も多いと思いますが、徹さんは2021年に夭折されました。その最後の瞬間まで、徹さんはディベート業界に贈りものをするために準備していたものがあります。それが、本企画です。徹さんが学習教材としてふさわしいと選んだ「ディベート甲子園のジャッジ名判定・講評」となります。もしかしたら、皆さんの中には、ぜひこれを取り上げてほしいというものもあるかもしれませんが、何よりも徹さんの遺志を尊重させていただくということでご理解ください。

さて、ディベートは難しい問題を限られた時間で判断するという構造上、論理の余白が生まれることが多くなります。しかし、それでも論理的に判断しなければならないため、それを埋める役割としてジャッジ自身の個性や価値観が反映される時があります。いわば、ジャッジ自身が最後のディベータ―となり、試合を見た全ての人を相手に説得するスピーチを行うわけです。時として、その講評は試合の余韻が作り出した空気に包まれている選手や聴衆と無言のコミュニケーションを行いながら、ジャッジの個性が反映された魅力的な物語になります。

その瞬間は、寄席で観客と共に一度しかない一席を語る噺家のようです。噺家は同じ演目をするにしても、その日の観客の空気や自身の解釈によって、その人にしかない個性ある作品へと創りあげます。それとディベートが似ている。ディベーター落語部と銘打って、時には一緒に話芸を鑑賞し、語り合っていた徹さんと意気投合しました。

実はこの企画は数年前からアイデアだけはありました。ただ、なかなか着手できずにいました。そんなある日、徹さんから前に進めようと連絡が入りました。私と徹さんが筆頭著者の形ではありますが、企画実現のために全国教室ディベート連盟の瀬能和彦さん、田中時光さん、全国教室ディベート連盟関東支部の神永誠さんもチームに加わっていただきプロジェクトは本格スタートしました。

しかし、実はその段階で徹さんの病は悪い方向に進み始めていたそうです。私もそれを知ったのは、後日でした。ただ、そんな様子は少しも見せず、徹さんは着々と準備を進めてくれました。徹さん自身が自分の講評をまとめ、第1稿ができあがるところまでいきましたが、残念なことに完成へ至る前に徹さんは旅立ってしまいました。公開することができなかったことは、私にとって悔やんでも悔やみきれないことでした。

ジャッジの講評は、ディベートに深く関与していない人がディベートに触れる瞬間でもあります。その意味で、ディベートのジャッジとはディベートコミュニティとそれ以外の社会を繋ぐ存在だといえるでしょう。主審ジャッジの講評とは、副審、選手、観衆を含む、その試合の場にいた全ての人と共に作り上げる話芸です。そうなれば、ディベートに興味がない人にとっても面白い芸になると思います。

その意味で、主審を務めるジャッジが果たす役割は大きいものです。しかし、その判定をよりよくするための方法は今まで経験しかありませんでした。だからこそ、今後ディベートがより良いものになっていくためには、ジャッジ教育が最重要であると考えています。

私も徹さんをはじめとして多くの先輩たちから、ジャッジとしてたくさんのことを学びました。特に徹さんは、私のような若輩者の講評判定を聞くために、ディベート甲子園では毎年のように、わざわざ会場に足を運んでくださいました。反省会(と、称する飲み会)では、よりよい講評にしていくためのアイデアや方法などを惜しみなく色々と教えてくれました。

私は過去にディベート甲子園の決勝主審を務めたことがあるのですが、決勝主審の大任を終えた後に、全国教室ディベート連盟の瀬能和彦さんと徹さんが私のために一席用意してくださいました。お酒を交えながら、講評について色々と楽しくご指導いただいたこの席は、忘れられない思い出です。選手だったときには分からなかったジャッジとしての苦労や大変さ。そして、それを上回る貴重な経験と社会的意義。ジャッジは選手だけでは体験できないディベートのすべてが詰まっています。

徹さんをはじめとした先輩方から学んできたことを少しでも、この企画でお伝えすることができれば、それに勝る喜びはありません。人間国宝の桂米朝師匠は「話芸に到達点などありません」と仰っています。ジャッジの講評もまた、話芸と同じで到達点などないと思います。ジャッジも選手も共にディベートを通じて一生学びあう仲間だと思っています。

そして、米朝師匠はこうも言っています。「ええか、やっぱり最後は人間やで、人柄や。どんなに上手くなっても、どれだけ売れても、人間性やで。
そやさかい、人間を磨いていかなあかんのや」

ジャッジとは突き詰めるところ人間性であり、ジャッジもまた選手と同じく、ディベートを通じて人間性を磨いていくための究極の方法の一つだと思います。ジャッジの一言で救われる選手がどれだけいることか。そんな人間性溢れるジャッジがいるとき、ディベートが目指す議論価値を社会に正しい形で大きく前進させることができると思います。一人でも多くのディベーターが、ジャッジに挑戦し、あなたにしかできない講評判定を見ることができる日を企画者一同で楽しみにしています。

ところで、落語の最後にいう「それでは、お後がよろしいようで」という言葉があります。これはオチがつきましたではなく、後ろに控えている話者の準備ができましたという意味だそうです。ということで、本企画の最後はこれで終わるべきしょう。

それでは、お後がよろしいようで。


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