ディベート甲子園「名講評・判定」スピーチ“列伝”第一回 渡辺徹さん


■データ■
第20回(2015年)全国中学・高校ディベート選手権 ディベート甲子園 高校の部決勝
論題「日本は、裁判員制度を廃止すべきである。是か非か」
肯定側・東海高校 否定側・熊本マリスト学園高等学校
主審・渡辺徹さん(全国教室ディベート連盟 監事)
・チャンネル名「特定非営利活動法人全国教室ディベート連盟」
・動画名「高校の部・決勝戦_講評と判定_第20回ディベート甲子園(2015年)

■第1部 講評・判定スピーチ■

<1.> 講評

ご紹介を頂きました渡辺徹でございます。それでは高校の部、決勝戦の講評・判定を申し上げます。

20周年の記念大会でございます。その決勝にふさわしい、非常に白熱した接戦でした。大会20周年を祝しまして、これまた20回目になるはずの例のセリフにも20回目の栄誉を差し上げたく、ここからはじめさせて頂きます。では、参ります。

<1.1> 「ディベートって?」

ディベートって、「リスク・コミュニケーション」ではないかと思っています。
(拍手)
ありがとうございます。

解説いたします。
まず、リスクについてです。一般的にこの言葉は、危険なものとか、ヤバいもの、そういったイメージが強い言葉だと思います。例えば、健康を害するとか、生命を失うとか、財産を失うとか、好ましからざるものを発生させる確率のように使われている用例がよく耳にするところです。

ではしかし、このリスクという言葉を語源的に考えますと、必ずしもそうではありません。RISKというのは英語ですが、遡りますとラテン語の口語:俗ラテン語までたどり着きます。その言葉ですとRISCO、その動詞形はRISCAREになるのですが、もともとは「絶壁の間を縫って船で進む」ということを意味します。

うまくかわして辿り着いて、積み荷が捌ければ大儲け。だけど、悪くして絶壁に船を打ち付けられたら難破。そのギリギリを進むというニュアンスなのですね。この意味からいくと「虎穴に入らずんば虎児を得ず」。さらに言えば「ダメでもともと」というのもリスク本来の意味、という事になります。不確実性がつきまとうメリットもデメリットも、その双方がリスク本来の意味合いに入ってくるということです。

ディベータ―の諸君は、重要性を発生過程で割り引いてメリット・デメリットを比べれば、何をすべきである、是か非かを判断できるようになるというのは、よくよくご存じですよね。

話は、次の段階に進みます。

これが個人でリスク選択であれば、結構話は簡単です。例えば、昨年聞いた例ですが、「昼食をカレーにしようか、パスタにしようか。」「カレーにするにしてもナンにしようか、ライスにしようか。」そういったことは、私の関知するところではございません。そのリスクを個人が全部引き受けられるのであるならば、これは本来的に個人の自由な判断に委ねられる問題ということになります。

ところが社会的選択というのは、少々悩みが付きまといます。

まず、リスクの感度が人によってバラバラです。今日の天気もそうですが、同じ曇り空を眺めても、降るだろう、降らないだろうで見解がわかれます。さらに、「濡れてもかまわない」や・「いや濡れるのは絶対にさけたい」。ここでも判断が分かれます。ということは、同じ状況があったとしても、人によって傘を持っていくべきだと考える人と、傘を持っていかなくてもいいだろうと考える人が出てきてしまうという話です。

さらに言うと、社会問題というのは、メリット・デメリットが不均一に散らばるという特性があります。ある人にとっては本当に切実な問題であっても、他の人にとってはそれほど重要な問題ではないというのはざらにある話です。

そういった状況をふまえて、是か非かという問題に決着をつけなければ、仕組みや制度を作ることができません。

<1.2> 社会的選択における「熟議」、そして「公の議論」の重要性

ここで一つの考え方として、「とにかく早く決めるのが良いんだ」という考えもきっとあると思います。私は、この考え方には必ずしも賛成しません。というのを、資料を引用しながら説明をしたいと思います。アメリカの政治学者、ジェイムズ・フィシュキンという方の著作、「人々の声が響きあうときー熟議空間と民主主義」という本の一節です。引用します。

「世論調査がその名に相応しいほど、世間は意見といえるほどの意見を持っていない。回答者は知らないと認めたくないため、その問題について一度も考えたことがないと答えるよりは、ほとんど適当に答えを選ぶ。ジョージ・ビショップの実験によると、いわゆる1975年公共法について、人々は一家言あるかのように回答した。そのような法律は存在しないにもかかわらず、である。また、この架空の法令、1975年公共法の20周年という節目にあたり、法律の廃止についてどう思うか、ワシントンポスト紙が質問したところ、それについても回答者には考えがあるようだった。くどいようだが、そのような法律は実際には存在しない」
引用終了。

お伝えしたかったことをお感じいただけましたでしょうか。ことほど左様に、健全な意見形成のプロセスを経ないやり方で結論を出そうと思うと、その結論というのはどうしても粗忽になると言えるわけです。

かくして社会問題の対処を考える際には、社会の中で十分に議論を行う、すなわちメリット・デメリットについての「リスク・コミュニケーション」を十分に行う必要がでてまいります。

「公の議論」の中で、お互いの考えを聞く・話す・検証する。その中で新しい事実や知識を学び、見解や価値観の相違に気づき、対処を考え直す。すなわち議論の中で、我々自身の学びと気づきが促されることによって、自分の利害のみならず他人の利害にも思いが至るようになり、そうしてはじめて社会的決定が納得のいくようなものになっていく訳です。

<1.3> ディベート甲子園の社会的な意義

福澤諭吉が言うとおり「国民が愚かで、政府だけが賢い」ということもありませんし、「政府だけが愚かで、国民が賢い」ということもありません。未来の社会が良くも悪くなるも、構成員次第です。

18歳選挙権が実現された現在、今になって各方面から、公民教育はどうするのだ、有権者の社会的なリテラシーをどうやって育むのか、というような声が聞かれるようになりました。誠にごもっともだと思います。シチズン・リテラシーこそ、未来の良き社会のインフラです。

だからこそ、全国教室ディベート連盟は、読売新聞社をはじめ各方面のお力添え、それから保護者・学校関係者の皆さんのご理解とご協力を得ながら、ディベートという形式による「社会的なリスク・コミュニケーション」を生徒諸君に体験的に学んで頂く、そしてまた世の中に広くご覧いただくイベントとして、この「ディベート甲子園」という取組を、今から20年も前からやってきたわけです。ああ、ようやく時代がディベート甲子園に追い付いてきたんだなぁと、私は本当にひそかに喜んでいます。

開会式の主催者あいさつで、藤川理事長も言及しておられましたが、この大会に参加された、地方大会・全国大会に参加された方、高校三年生の諸君は、来年の7月に予定されている参議院の通常選挙では、有権者として臨むことになります。さらにまた遠からぬ将来、ご自宅に、裁判員選任通知の封筒が届くことも、きっとあるでしょう。その時には、ディベート甲子園に参加したという誇りと自信をもって、堂々と世の中を良くする方向に皆さんの一票を投じて頂きたい。

この素晴らしい女子聖学院のチャペルの壇上から、祈りを込めて、そう願っております。
コミュニケーションの話から、コミュニケーション「点」の発表に入ります。

<2.> 判定

<2.1> コミュニケーション点の発表>

はい、肯定側、東海高校。立論18点、質疑18点、応答19点、第一反駁14点、第2反駁16点。マナー点の減点はございません。合計85。立論18、質疑18、応答19、第一反駁14、第二反駁16、マナー点の減点0、合計85。

否定側、熊本マリスト学園高等学校。立論18点、質疑16点、応答13点、第一反駁19点、第二反駁16点、マナー点の減点は0、合計で82点。立論18、質疑16、応答13、第一反駁19、第二反駁16、マナー点の減点は0、合計で82、でございます。

<2.2> 試合におけるコミュニケーションについてのジャッジ所感とアドバイス

ジャッジの感想として、今回の試合で印象に残ったやり取りがあったとすれば、肯定側、否定側両方とも質疑応答のやり取りは面白かったという点をご紹介しておきます。

肯定側は、ミクロの視点でその証拠資料もしくはその議論で、何がわかって、何がわかっていないかを明らかにするような質問をジャッジ一同に見せてくださいました。否定側の方は、そもそも議論の全体構造をわからせる、これは割と重要なことなのですが、「ラベルを繰り返してください」。メリット・デメリットのラベルでなく、すべての論点にわたってラベルを繰り返してください、とおっしゃいました。これは聞いていて、ジャッジもそうですが、聴衆の皆さんも同時にお感じになられたと思いますが、言ったことがもう一度反芻できるようになる訳ですね。こういう事をしていただくと。そういう意味で、質疑のやり取り、肯定側・否定側ともに、気持ちの良い試合であったということを、まずコミュニ―ション点の振り返りとして発表しておきます。

あと、試合全体に関して2点。ジャッジの方から感想がありましたので、ご紹介をしておきます。まず1点目はですね、「言葉の意味に深く想いを致すようなセンスをもってください」ということです。

言葉の意味。例えば「正しい判断」って何でしょう?証拠、科学的な証拠がついているというのも「正しい」でしょうし、一般の常識に合致するのも正しいでしょうし。

この度のディベートでは、「何が正しいのか?」という部分が「正しい」という言葉を使っていながらも、違う実態を指し示す可能性があった。そこは、例えば「正しい」という言葉の意味、「常識」という言葉の意味をより深く考えるやり取りがあってしかるべきだし、そこに関して議論の余地があったということです。

ディベートですので、ディベーターの諸君は何を言っても良いという自由はございます。が、一般の場において、「裁判官は、常識がない」などと無限定に言ってはいけません。まあ試合の中でも、今回よくよく証拠資料を見ますと「裁判官には、常識がない」と言っている。そういう主張をしているジャーナリストがおられて、その方のご経験の中から「裁判官は常識がないんだ」という意見を言っておられるんだ、ということが証拠資料から読み取れるはずです。だとすれば、それに対して何らかの手は打っていて良かったかもしれません。

<2.3> 論点評価: メリット1の評価

個別の議論の評価へ入ります。メリット1、2とございますね。

「裁判員の負担を救済して差し上げる」という話。論理構成は、ショッキングな映像・音声等が心身のストレスになり、それが引き金になって実際相当の因果関係をもって認定される事案というのがあり、それは健康だけではなく、そんなことに悩まされるような人が出てくることは良くないのだ、という主張でありました。

形式的には理解はできました。が、何と言いますか、これは他のこの後の個別の議論にも当てはまるところなのですけれども、皆さん今回の試合、フローをとってご覧になった方はお気づきだと思いますが、相当 “ノーガードの打ち合い”をしてございます。打たれたら打たれっぱなしみたいな感じになっている論点が多いのですね。こういうところは、ジャッジは整合を付けながら判断をしようとしますし、さらに悪いことには、ディベータ―が議論をしていないのだから、ここから先意味を解釈するには、ジャッジが考えるしかないよね、と思わせてしまうのですね。もったいないです。

重要なアタックに関しては、ここの軽重の判断が難しいのですが、重要な論点に関しては極力、議論として手をつけるようにしていただきたかったな。これは肯定側、否定側両方ともに当てはまる話ですが。

メリット1に関して戻りますと、否定側の論点として、もうすでに地裁での取り組みがあり、なおかつ、最高裁で取り組みを、事例を普及する。要は「そういう配慮をしなさい。ショッキングな映像とか音声とかは配慮をしなさい」というお達しが出ていて、という証拠資料。ですから、「将来的にはこのメリットは少なくなっていくよね」という風に受け取られてしまいました。さらに言うと、これは負担感ではないのですけれど、負担があったとしても意義深いものだという風な意見もあったという、これも証拠資料付きで出ています。負担はあるにはある。でも、それは意義のある負担だ。だとすると、これはむしろ否定側に好意的に解釈すべき負担ではないか、という風に実際に受け取った人も出てきております。

結論的には、メリット1は、ほとんど判定には影響を与えない論点として沈んでおります。

<2.4> 論点評価: メリット2の評価

メリット2「慎重な審理の実現」ですね。
今度は逆に肯定側の論旨としては、公判日程が短い。それが故に証拠を圧縮する、という現象が起きている。集中審理の際に弁護人は、証拠の追加対応などにも対応できない、時間がない、考える暇もない。控訴審においても、それを取り返すのは難しいという一連の論旨。

これに対して、否定側。これも“絡み方”が、不十分なのですね。ただ、これまた肯定側が反論を全くしなかった議論として、「いやいや、そもそも裁判員制度では裁判員の皆さんはお忙しいので、長期にかかるような裁判員裁判というのは回数を減らしているんですよ」という指摘があり、これはまったく黙っていらっしゃいましたね。「ああ、回数は減るんだね」と受け取らせていただきました。

その後の「公判前整理手続き」の時間の取り方というのは、これはジャッジによって、受け取りが分からなくなっています。何故かと言うと、相手の議論にどう関係しているかのそもそもの説明が不十分だからです。ジャッジは、どうにかして整合的な解釈をもたらそうと思って、苦しんで自分なりの意味を見出そうとしています。ただ本来は、ここは疑問を投げかけた否定側も、守るべき肯定側も、どうだったのか決着を反駁の中でつけていただきたかった論点の一つです。結果は、バラけています。集中審理に、やっぱり弁護士さんは対応できなくなって、そうすると考慮すべき事情みたいなものが証拠から飛んでいって、適正な判断ができなくなると受け取った方もいますし、そもそものこの二つの時間の関係性。どうして集中審理がしにくくなるのかというところに、疑問を持ったという人もおられます。決着のついていない、見解の分かれたポイントの一つはここです。

重要性に関しては、これはもう手付かずですので、刑事被告人の防御権というのを維持するのは大切であるという理解は、ジャッジ一同が持ちました。

が、発生のプロセスとして、集中審理、回数は減った。集中審理に際して、公判前整理手続きの長さが一定程度ある。この辺のやり取りがテクニカルに複雑で、ジャッジの自由な解釈に委ねられている論点として残っています。メリット自体はあるのですけれども、この集中審理のところを大きくとった人と、小さくとった人というのが分かれてきているということです。

<2.5> 論点評価: デメリットの評価

デメリットの評価に入ります。
デメリット「冤罪の発生」。まず現状の分析として、有罪バイアスというのが裁判官には働いていて、それに対して、裁判員というのは、その有罪については自由であるという話を、現状分析1点目2点目、2点目においては「裁判官に常識がない」ということをおっしゃりながら、説明をしておられました。

ただ、現状分析を折り返す形で、発生過程を論じておられ、冤罪の事例の発生は、袴田事件を事例として引いてこられています。「冤罪というものが世の中にあるよ」ということの証明はなされたのですが、「発生するかどうか」の分析は、現状分析での一連の議論の強さに依存するという構成になっています。発生過程ですので、本当にこれをこうやったらこうなるのだということは、実は現状分析の折り返しかもしれませんが、言葉にして欲しかったところです。冤罪が何故に、どういうメカニズムで増えるのか、あるいは増えないのか。そこを反駁の中で整理していただきたかったのですね。

あと、重要性。冤罪そのものは、よくありません。ここはジャッジ一同は認識しましたし、肯定側との議論にもなっていません。

今回のジャッジの自由裁量にゆだねられたのは、そういう要因が実際に冤罪として発生する、冤罪の発生のリスクをどれだけ上げるのか、というところに響いてきたかによって、ジャッジによって受け取りの差が出てきているということです。

今回ですね、有罪推定は、裁判官は「有罪推定を持っています」という恐ろしい前提が最後まで通ってしまっているのですね。はい。これ以上もう論評は避けますが、もう少し議論の余地はあったように思います。

だとすると問題は、裁判員という人がどういう方かに依存します。否定側は、多様なバックグラウンドがあり、その日の為だけに来て、新鮮な気持ちで、裁判官の判定にも色々コメントして評議を充実させる人々だ、という人物像を描きました。

否定側は、そうは言っても、その人たちは裁判官に誘導されてしまいますよ、という議論。および、個別の事例として、ここはやり取りがあって見ごたえはあったのですけれども、最終的な整理として、立川の事案、それに薬物の事案。双方とも直ちにこれが冤罪のリスクを引き上げるものではないと判断されますが、その一方で、裁判員がなにがしかの貢献を評議において成した事例とも理解できる、という整理になっております。

とすれば、デメリット:冤罪がどれだけ発生するかの程度判断は、ジャッジの主観判断に委ねられますが、「裁判官だけの制度」と「裁判員を交えた制度」では、ある程度無罪の方向に振れる可能性は高まるんだな、という意識は成立しています。これは5人とも成立しています。

<2.6> 判定結果

だとすると、先ほど申し上げたメリット2の発生の可能性とこのデメリットの発生可能性を比較した場合どちらの方が大きかったか、という判断は見事に3対2に分かれております。

それでは結果を発表します。
(音楽が流れる)
この試合の結果は、3対2。否定側・熊本マリスト学園高等学校の優勝となりました。
おめでとうございます。

【第二部】 講評者へのインタビュー 編集部

(編集部 久保) この度は、企画の発案にはじまって、ここまで企画の現実化を進めて頂いて、感謝しています。企画のお声がけを頂きまして、本当にありがとうございます。

(講評・判定者 渡辺)いえいえ、こちらこそ、久保さんのTwitterでのつぶやきだった、「ディベートの講評・判定スピーチって、ここから何かを学ぼうと思って聞いていると、めちゃくちゃ勉強になる」「試合を落語の話として見立てると、同じ論題の同じ試合でも、違う人が講評・判定するのを聞いていると、これも講評者の個性が芸風として出てくる」というつぶやきにインスパイアされたところから、企画のすべてが始まっているのです。礼を言うのはこちらのほうですって。

(久保)ありがとうございます。それでは伺いますが、まず講評・判定で心がけていることは何でしょうか。

(渡辺)これは、「ジャッジインターン講座」を見学したときに学んだことなのですが、選手が初級・中級・上級かで、話す内容を変えなければいけないということがあります。

特に判定理由の説明では、どの級にも共通して言えるのは、選手の最大の関心は「主張がジャッジに伝わったのか?」という点です。なので、ジャッジは議論をこのように受け取ったということは、初級の人に対して程、丁寧に伝えるように心がけています。

そのうえで、ジャッジの間で見解の相違が発生している論点があった場合、どうしてそうなったかを説明するようにします。

さらに、勝敗に影響した論点はこれで、影響しなかった論点はこれで、だから判定はこうなったのです、が理解してもらえるように心がけています。

(久保)講評については、いかがですか?

(渡辺)はい。これについては、選手の他にも、聴衆の方への配慮も、考慮しなければいけませんね。そもそも、春季大会のような練習の色彩が強い大会と、ディベート甲子園全国大会への出場権をかけた夏季予選では、選手の気合が違っています。さらには、地方大会から全国大会にもなると、見学参加の方も多様になってきます。講評として、どの人にどのようなメッセージを送るべきか、いろいろと考えさせられる所です。全国大会をとってみても、予選リーグの試合と、決勝トーナメント、さらにはこの試合のような決勝戦とでは、講評スピーチの内容は全然変わってきますしね。

今回の例では、聴衆としてご覧になられている、ディベート甲子園に参加した選手の保護者の方を念頭において、全国教室ディベート連盟の存在理由でもある「公の議論」の意義とディベートの役割について解説するのに時間を割きました、近年ではこれに加えて、ディベート甲子園の全国大会の存続のためには、保護者・学校関係者の他、あらゆる方面からの物心両面のご支援が不可欠な情勢に至っておりますので、「御礼」と今後の「ご支援のお願い」にも、講評の時間を割くようになって参りました(笑)。

(久保)あと、講評・判定スピーチの実施時のご感想や、何かハプニングなどが、ありましたらどうぞ。

(渡辺)これは、私の場合、コミュニケーション点の発表ですね。
 私、お恥ずかしいことながら、決勝戦のコミュニケーション点の発表で、否定側の合計点の発表を、2度ミスってます。その2度とも、その後に言いたいことがあって、気分が少し高揚してしまっていたからなのだと思いますが、反省しています。2回目の時は、判定スピーチの間に訂正メモが入って、間に合ったのですが、1回目の時には、あとで訂正の発表を司会の方に入れて頂くという手間をおかけしました。恥ずかしいことです。

 それ以来、くどいほど、コミュニケーション点の言い間違いをなくす工夫を、いまでも試みています。日々精進ですね。
 あと、ある決勝戦では、コミュニケーション点の合計メモが手違いで、私の手元に届いていないまま、講評・判定スピーチを初めてくださいと言われたこともありました。何とか、スピーチ中に合計メモを手元に差し入れて頂いて事なきを得たのですが、今思い返してみると、あれはハラハラ・ドキドキでしたね(笑)。

(久保)そうでしたか。それは大変でしたね(笑い)。
さて、長時間にわたって、インタビューご協力、本当にありがとうございました。まだこの企画は始まったばかりですが、どうぞよろしくお願いします。

(渡辺)「世界の車窓から」みたいに、かなりの「長旅」になると思いますが、こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。

おわりに: 謝辞 渡辺徹 

この企画は、Twitterでの久保さんへのつぶやきへのコメントを拾っていただいたことに端を発し、ここまでとんとん拍子にカタチと発刊に向けた段取りがまとまって、現実化の運びに至りました。まずは、この企画にご賛同、ご協力いただいたすべての方に、感謝の念を表したいと思います。皆さんの「熱」なしには、この企画は実現しなかったと思います。本当にありがとうございました。

私は、第11回から第24回のディベート甲子園全国大会の高校の部の決勝戦の主審を仰せつかってきました(もちろん例外がありまして。2009年と2017年は準決勝の主審を、また2020年は大会不開催のため、立論グランプリの審査員を仰せつかりました)が、この第20回の記念大会(2015年)の決勝講評は、教室ディベートに寄せる私なりの想いをまとめてお話ししたものです。

日本における「公の議論の文化」のさらなる発展に資するよう、この大会が、松本茂先生に始まる「例のセリフ」とともに、後世に受け継がれることを願ってやみません。

最後に、共同編集の労をいとわずにとっていただいた久保健治さん、さらに、企画の初期段階からいろいろとテクニカルなご相談にのっていただいた瀬能和彦さん、神永誠さん、田中時光さんには、重ねて御礼申し上げたいと思います。

あと、忘れるところでした。
私のライフワークであるディベート普及活動を温かく見守ってくれている妻・起里、さらに近年、ディベートの教育的意義を折にふれて体感してくれている長女にも、感謝の念を申し述べさせてください。「ホントにありがとう!」

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