4月3日
久しぶりに日記を書く候。
句点の直前に漢字がある状態が新鮮で好きだ。収まりがよい。
今日は朝から引っ越しの見積もり。そのあとちょっと寝て、ささしまライブでお寿司。県美に行くはずが眠くなって帰宅して、ケルアックの『オンザロード』を少し読んで、お腹が減って、オートミールクッキーを焼いて食べた。
それから眠って起きると20時で、またお腹がすいて、もめん豆腐とじゃこ、納豆、からし菜のサラダ、かぼちゃを食べる。
寝てるか食べるかしていないことが不安になって、走りに行く。ジャージを着て外を歩いて、走って、疲れたらまた歩いて、みたいな、ランニングとはとても言えないような動きをひたすらしている。
ずっと、不安に駆られて夜中に飛び出していくことが多かった、特にこの社会人の数年は。日中に蓄えた脂肪や鬱屈をちゃらにするつもりで、つまりは何かを取り返すような心持ちで、ガシガシ歩いたり、ひたすらに母か恋人に電話して夢の話をしていた。
先週の土曜日、恋人と夜の散歩をしに出た流れで、名古屋城に夜桜を見に行った。夜22時近かったけれど、よく見ると暗がりの中をたくさんの人がうごめいていて、私は皆が同じようなことを考え、同じような時間を過ごしていることがうれしくて仕方がなく、恋人に「なんだ、みんないるじゃん」としきりにまくしたてた。みんないるんじゃん、こんなところにいたんじゃん、早く言ってよ。みたいな調子で。
とっくにしまっていると思っていた名城公園内の敷地にあるスターバックスも開いていて、たくさんの人がレジに並んでいた。私はオーツミルクラテ、恋人はゆずシトラスティーを頼んで、歩きながら飲んだ。三月のわりに温かい大気と涼しい風と、夜桜とそれを見に家から這い出してきた人々と、スターバックスのオレンジ色の店内の光と、手に持つ飲み物の温かさと、私に歩調を合わせて、くだらない話を延々とできる人が隣にいることのすべてが、何一つ不足なくここにあった。
夜中に這い出して一人で路上を歩きまわる行為は、良く言えば散歩、悪く言えば徘徊で、家に居ても立ってもいられないときに(どんなに身体が疲れていようと)発動するのだが、一日分の目に見えない何か――運動したという満足感のようなもの――を手に入れる代わりに、何も積み上がっていかないという不安を同時にはらんでいて、ふとした拍子に、こんなに歩き回ってなにやってんだろ、という気持ちになった。
会社から帰ってきてやることが、食べることとこうして徘徊することくらいしかない自分を恥じていた、それでも脂肪を積み重ねるよりはマシ、と思いつつも、それなら初めから食べすぎなきゃいいのだと情けなくなった。
先週の夜桜散歩や今日の徘徊も、例にもれず、運動しなくてはならない、という気持ちから始まったものだったが少し様相が変わっていたことに気づいた。春だったかもしれない。走っている身体や、大気を感じている皮膚がとにかく心地よく、動いているあいだじゅう「今ここ」を生きている実感があった。
私は中学生の、生理が始まったころからとにかく身体の調子がよくない。内臓は腫れているように重いし、代謝がどんどん悪くなっていく。家にいても落ち着かないのはそれに起因しているとも思う。ともかくじっとしていると、その体調の悪さにいやというほど向かいあわなくてはいけない。(だからお風呂のように、身体に外部からの熱を送り込むような空間でようやく、じっと本が読める)。
ぐんぐん走る、すぐ疲れる、止まる、と、汗が噴き出してきて、それを風が冷やしてくれるこの気持ちよさ。重く固まっていた内臓が上下して気持ちがいい。
未来を意識して、何かを積み上げようと無理をするよりも、今をどうやって心地よく満足にすごそうか、20代はせめてそれがわかるようになりたい。そうやったら気持ちよく文章が書けるか、読めるか?
つまりはそれは私にとって生きることと同義なのであるが。