【母方ルーツ #2】魔法使いだったかもしれないのおじいちゃんのこと
「到着は5時57分かな」
いとこと私の2人で母方祖父母の家に遊びに行った時のことです。
車を運転するおじいちゃんが、出発してまもなくそう言いました。
時間にして30分くらいの道のり。
平日の夕方、帰宅ラッシュで道路も混んでいる時間です。
当時小学校高学年だった私は、何故「6時くらい」と言わないのかなぁとぼんやり考えながら、
運転席のデジタル表示の時計とにらめっこしていました。
「はい、到着!ついたよー!」
その言葉と同時に時計はPM5:57の表示となりました。
「すごい!!おじいちゃん魔法使いみたい!!!」
当時の私がそれを言葉にして祖父に伝えたかどうか記憶は定かではありませんが、目を輝かせ尊敬の眼差しで祖父を見た記憶は今も強く心に残るエピソードです。
今思えば、毎日のように通る道の所要時間はだいたい予測はできるし、この時もたまたまだったのかもしれません。
けれど、祖父は物ごとを見抜く目が鋭いことを子供ながらに察知していたからこそ、この何気ない予測が私にとっては魔法のように感じたのだと思います。
おじいちゃんとの最後の記憶
父方祖父は私が生まれた時には既に仕事からはリタイアしていたこともあり、のんびりした雰囲気のおじいちゃんでした。
一方母方祖父は、自ら起業し一代目の社長として会社を成長させてきた厳しく勤勉な人柄で、68歳で他界するまで現役だったこともあり、孫の私から見てもどこか近づきがたい雰囲気を感じていたのです。
もちろん優しかったです。
思い出す祖父の顔も笑顔です。
それなのに厳しい人だったと思うのは母や祖母が語る祖父の人物像が刷り込まれていたかもしれません。
祖父が他界したのは私が小学校6年生の時でした。
膵臓癌で数ヶ月の短い闘病期間ではありましたが、本人にとっても看病をした家族にとっても壮絶な時間だったと思います。
「子供は病院へ来るものじゃないよ」
と、祖父は孫の見舞いをさせなかったので、まだ入院間もないころにたった一度行ったきり。
その時が私が生きた祖父に会った最後となりました。
3ヶ月ほどの入院期間は母と祖母が毎日病院に通い、付き添いをしていました。
私が祖父の苦しむ姿を目にすることはありませんでしたが、毎晩帰宅した母がかもし出す不安と疲労の雰囲気に、私も心がザワザワしていました。
その間、学校の行事やスポーツクラブの付き添いに母が来られないことも多く、何故私だけそれを我慢しなくてはならないのかとワガママを言い、母を泣かせたこともありました。
寂しい気持ちになるのは祖父のせいでは無いとわかっていても、やっぱり心のどこかで祖父のせいだと考えていた私は、祖父の死を告げられた朝、そしてその後もずっと心の中に罪悪感のようなものが残っていて、怖くて申し訳なくて結局祖父の最後の顔を見ることができませんでした。
「お母さんのいない時間、寂しい思いさせちゃってごめんねぇ~」
もし私の心の中を祖父が覗いたとしたら、そう言って私の心を責めることはなかったでしょう。
子供の少し残酷さを含んだ無垢なわがままであったことも大人になった今なら自分自身を客観視することもできます。
けれど、今より感受性が鋭く繊細だった子供の頃の私は怖くてやるせなくてどうにもならない気持ちを抱えたまま数年をすごしました。
あれからもう30年。
罪悪感や怖さはもうありません。
むしろ、かすかな記憶と母の語る祖父の人物像から、大人になったいま、祖父と対話することが出来たならば、どれほどたくさんの智慧を授けてくれるであろうと考えるようになりました。
父親の顔、仕事人の顔
祖父は大正11年生まれ。
戦後帰還したのち、自ら起した板金工場を少しずつ大きくし、住み込みの社員も数人いたそうです。
住み込みさんたちは、義務教育を終えたばかりの若い青年。
祖母は相撲部屋のおかみさんのごとく、若い社員と家族の衣食住を支え、時には祖父の右腕としての仕事もこなしていました。
三人兄弟の末っ子である母も子供の頃からその住み込みの社員さんたちと食卓をともにし、母自身も大量の食事の準備に駆り出されていたようです。
祖父は住み込みの社員と自分の子供に分け隔てなく接するようにつとめていたそうで、ある意味では実の子供たちが少し寂しい思いをすることもあったそう。
Always三丁目の夕日の世界観にちょっと似てるかもしれません。
母にとっては、家族として父親の姿、仕事に向き合う経営者としての姿、その線引きが曖昧な中で厳しい顔もたくさん見てきたのでしょう。
実直で努力家で自らに厳しい姿、母もまた祖父に鬼気迫るオーラを感じできたようです。
戦争について多くを語らなかった祖父
祖父もまた戦争の体験を持つ人でした。
けれど家族にはそのエピソードをほとんど語らなかったと言います。
そんな僅かな情報として、祖父は海軍で特攻隊に関わったらしいという話を母から聞いたことがあります。
どうやらそれは回天というものらしく、もう少し戦争が長引いていたら、祖父もまた命を落としていただろうということでした。
戦後しばらくしてから実家に戻ってきた息子(祖父)の姿を見て、母親(曾祖母)は「お前生きてたのか!!!お前なのかい………」と幽霊を見るかのように、驚いていたそうです。
息子の戦死を覚悟していた母親の驚きと喜びはいかばかりだったか。
その時もまた帰る場所が無くなった仲間を伴って帰ってきたという祖父。
面倒見よく人情に厚い人柄だったことを感じさせるエピソードです。
ただ、戦時中どこに配属されていて何をしたかは、母にたずねてもよくわからないと言いますし、なんとなくそれ以上は聞づらい雰囲気かありました。
祖父本人が多くを語りたくなかったのに、そのことを知ろうとするのは良くないのではないか、そう思う一方でもっと祖父のことを知りたいという思いもまた膨らみます。
大和ミュージアム
広島県呉市といえば海軍ゆかりの地。
数年前、呉の大和ミュージアムへ行きました。
そこには数々の資料とともに、あの回天の展示もありました。
そして回天搭乗員の証言も…
これに祖父が関わっていた…の…?
つづく