ケガノコウミョウ
いつものよくある光景、バスに乗ろうと慌てて駆け出す。
でも、今回は、足がからまってアスファルトに容赦なく転倒。
「いつも」が一転して、膝下を10針縫うケガをしてしまいました。
ケガの直後って、痛みよりも驚きのオンパレードなんですよね。
転んだ衝撃
傷の深さに自分でびっくり
病院に行かなきゃ
どうやって?どこに??
一見、落ち着いてる風なんですが、痛みを感じないほどアドレナリン大放出中、突然の日常の大どんでん返しにパニックになってるわけです。
思わぬことに道端でうずくまっていたら、ひとりふたりと声をかけてくれる方たちが。
「大丈夫ですか?」
「病院どこがいいですかね」
「救急車よびます?」
そして、そのなかのお一人が、一度車で通り過ぎたのをわざわざ戻ってきてくれて、そのまま病院まで送ってくださったのです!
看護師さんに「どうぞよろしくお願いします」と言葉をかけてくれた時、思わず涙が出そうになったのは、やっぱり心細かったんだと思います。
お名前をお聞きしたのですが、「大丈夫だから」とそのまま病院で別れてしまい、十分なお礼が言えずただただ申し訳ないばかり・・・。
その後、治療もスムーズにすすみ、無事帰宅することができました。
「世の中世知辛い」がデフォルトの今の社会ですが、文字通り「痛い思いをして」優しさや親切の存在を体感することができました。
***
今回のことを思ったとき、前に読んだ「経験の解釈」についての一節が思い浮かびました。
「その経験にどんな解釈を与えるか」
事実は「転んで10針縫った」です。
これを、
「あんなに慌てなくてもよかったのに」
「予定が全部くるってしまって大変」
「余計な心配事が増えて落ち込む」
とするのか、
「世の中には親切な人がたくさんいる」
「病院にスムーズに行けたのは本当にラッキーだった」
「健康のありがたみを実感」
にフォーカスするのか。
どちらを選ぶかは自分次第で、その選択権をみなもれなくもっている
もちろん自分のなかに両方あることも認めつつ、よりどっちの世界の住人でいたいかは意識してみる価値がある気がします。
いただいた親切をご本人に直接お返しできないけれど、わたしも知らない誰かに手渡していきたいな。
ペイフォワード宣言です!