苦しくて潰れそうだった、当時のあなたの話をわたしは聞きたい。
場違いだと思った。
見渡す限り顔と名前が一致する、全日本や世界で活躍する選手ばかり。
きっとみんな、なんでこんなにヘタな選手がここにいるんだろうと思っているに違いない。いや、そんなものは自信過剰もいいとこで、本当はたぶん誰からも見向きもされていない。ああ、今すぐに全部投げだしたい。
偶然のような必然のようなはじまり
バトンに出会ったのは5才のとき。
「幼稚園にバトン教室ができるんだって~どう?やってみる?」チラシをみた母が当時のわたしに問いかけた。らしい。
そこからあれよあれよと、その魅力にハマった。
恥ずかしがりやで人見知り全開のわたしが、キラキラの衣装を着て、音楽にあわせてステージで踊るときだけは、たのしそうにしていた。夢中だった。はるか遠い記憶。
気づけば日常がバトン中心にまわっていた。
学校から一歩も寄り道することなく帰宅して、まず腹ごしらえ。時計をみながら準備してすぐに体育館に向かう。家に帰ればもう22時近く。夜ごはんを食べてお風呂に入って寝る。毎日この繰り返し。土日は朝から晩まで、ときには体育館を3つハシゴした。
近くて遠い、果てしない夢
いつしか、わたしの夢は「全国大会に出ること」になっていた。バトンには団体競技と個人競技がある。団体ではありがたいことに毎年全国大会に出場できていた。みんなのおかげ。チームってほんと可能性が無限大。一方個人種目となるとわたしの本番の弱さが顕著にでる。
小学4年生から年に一度、冬におこなわれる個人の選手権大会で、わたしは全国大会出場を目指してひたすら練習を重ねた。その大会自体が選考会だもの。なんのために出るってみんながそこを夢見て集まっているのだ。当然のように目指すべきゴールはそこだった。
実際どうだったかというと、予選を通過し、決勝の8人には必ず残る。ただ、全国の推薦枠にあと1つ2つ及ばない順位をもらう。これをわたしは10年間も繰り返した。小学生だったわたしは、まさかこんな状況が大学生まで続くだなんて思ってもいなかっただろう。
今ならわかる。
当時は体も心も思考も行動も、なにもかもが一致していなかった。
年に一度しかないチャンスを見事につかみ損ね続けるわたしをみて、先生は、チームメイトは、一体どう言葉をかければよいだろうか。わたしはいつも周囲に気をつかわせる。いつも期待を裏切る。
いったい何のためにこれを続けているのだろうか。悔しさよりも、惨めで恥ずかしくて、終わりが見えない闘いに、涙が止まらなかった。きゅっと細くなった喉から絞り出すように「ありがとうございました。次はがんばります」と震える声でみんなに挨拶をして帰る。これを毎年漏れなく繰り返した。
帰り道、車の助手席から窓の外を見つめてすすり泣きが止まらないわたしを隣に乗せ、母もどう接すればいいか分からなかったと思う。そう思わせていたことも全部全部嫌だった。辛いのはわたしだけじゃないことはわかっていた。
それでもわたしはバトンを辞めなかった。正確にいうと、辞めるなど言える立場ではないと思っていた。もっというと、そんな選択肢は用意されていなかった。
全国大会なんて正直もうどうでもよかったけど、とにかく行かないと終われないことだけはわかっていた。それを達成することでしか私も母も先生も、報われることができないところまで来てしまったから。
終わりのその先
11年目、ギリギリの順位でわたしはやっと全国大会への切符を手にした。もう大学2年生になっていた。喜びはほんのわずかで、「あぁ、やっと終われる。」そんな脱力感でいっぱいだった。
そしてまた地獄のような練習がはじまった。終わったのに、終わっていなかった。わたしがずっと追いかけてきた目標は達成したとたん、何事もなかったかのように次の本番に向かわせる。毎日朝から晩まで身体を酷使した。技をするたびに、ジャンプをするたびに足に激痛が走る。
太ももの骨にひびが入っていた。
安心した。
がんばらなくていい理由ができた。
いいパフォーマンスができなくても、誰からも責められないと思った。
痛み止めを飲んで出場した本番のことはこれっぽっちも覚えていない。
そして大学を卒業したわたしは逃げるように関西を離れ、東京で就職した。
あれだけお金も時間もかけたのに、何のためにやってきたか、もう正直分からないくらいあっけなく終わってしまった。
人生の点と線
社会人になった。これまでのわたしを知らない人たちのなかで、とにかく目の前のできることを淡々とこなした。どれだけ働いても体力が残る。疲れないのにやればやるほど評価される環境に、はじめて自分に誇らしさを感じていた。わたしができることであれば、なんだってする。
そう、だってわたしは期待に応えなきゃという想いが誰よりも強いから。
そして、数年後、日常になにかが足りないと感じていた。あれだけ毎日体を動かしまくっていたわたしが仕事しかしていないんだもの。なにかに熱中したい。とにかく体を動かしたい。
でも、もう本番で失敗はしたくないから、よさこいを選んだ。振付を覚えれば思いっきりたのしめると思った。動機は不純かもしれない。
YouTubeで出会った、あるチームの映像に釘付けだった。やるなら絶対ここだと。ピンと来てしまったなら体は自然と動く。
熱量ある仲間に紛れてすべてを出し切る感覚、この一体感に鳴りやまない拍手。全身が高揚した。抑え込んでいたなにかが解放されるような、爽快感のある疲労だった。
そう、だってわたしはもともと全身をつかって表現をしたい人だったんだから。
ほどなくして、コロナ禍で体育館が使えなくなった。お祭りもなくなった。そんなとき、コーチングに出会った。おもしろくて興味深くて、夢中になって学んだ。自分のことがちょっとずつわかってきた。深く向き合うたびに、あの頃の経験がいまのわたしを作り出しているんだと気づいた。
そう、やっぱりわたしは当時のあなたが気になってしかたないんだ。
思い出すたびに涙が込み上げるあの苦しかった体験が、十数年の時を経て、わたしに何かを教えようとしてくれている。
人生の伏線を回収する
いくつもの点がつながった。わたしは当時のわたしを救いたいのかもしれない。
サポートし続けてくれた母にも、粘り強く指導しつづけてくれた先生にも、共に切磋琢磨する仲間にも・・・いや、ちがう。そんな近すぎるひとたちだからこそ言えなかったほんとうの気持ちを、外に出してやりたかった。気づいてほしかったんだ。
だから神様はあんなに辛い試練をわたしに課したし、社会に出て人一倍やり抜く強さに気づかせてくれた。やっぱり湧き上がってくる表現したい欲も、コーチングに出会わせてくれたことも。全部全部つながって、いままたここに戻ってきたんだ。
これを実現するためにこの地球に生を受けたと思うと、これまでの人生すべてが必要なものだったんだと驚くほど抵抗なく全部受け止められる。ちょっと壮大すぎるけど。
わたしは、ひたむきに己と向き合い、あらゆるプレッシャーに自分を見失いそうになる彼らの心の炎が消えないように、いつまでも灯り続けるようなサポートをしたい。
そして彼らを通してスタジアムが、競技場が、ホールが熱気に包まれて、言葉にできないほどのエネルギーで溢れかえる場が、多くの人の心を震わせ、感動と勇気を与える瞬間を目の当たりにしたい。想像するだけでめちゃくちゃわくわくしてくる。
そんな個人のエネルギーを発端とした循環のなかに身をおきたいんだ。
わたしのいのちがきっと喜ぶ。
自分とつながることができたなら
あらためて、当時の苦しさを、やるせなさを、誰かに吐き出せていたとしたらどうなっていただろうかと思う。きっとわたしはがんばり方を誤った。まったくと言っていいほど、自分とつながっていなかった。心と体と頭がバラバラで、常に周囲を気にして誰かと比べていたし、能力もセンスもないんだと、自分を必要以上に卑下した。あまりにも失敗を積み重ねすぎた。
純粋に、バトンが好きで、バトンを通して表現するいつもと違う自分に出会う。音楽を全身で浴びて演じきるあの清々しさと高揚感で満たされる瞬間をただただ楽しめるような世界でつながれていたのなら―
心の底で叫ぶ気持ちが、弱音でも逃げでもない世界をつくりたい。取り繕うことなく、安心してほんとうの想いに触れる場所をつくりたい。恐れや痛みもすべて含んで、光も影もどちらもあってあなたなのだということに気づいてほしい。そのパワフルさを、インパクトの大きさを、いまのわたしは知っている。
自分の奥底に眠っていた感覚とつながったいま、わたしはなんでもできる気がしている。
トップの写真は学生時代に訪れたウユニ塩湖でみた忘れられない絶景。見渡す限り満点の星に囲まれた神秘的なあの空間は一生心に残りつづけるだろう。
当時制作したアルバムにわたしはこう書いていた。