超越的ぶったぎり(による笑いの)感覚をめぐって

・魅惑的な乱暴さについて

コンロの火を弱火にしていたトモ子は、この世界が途中で消されてしまうクイズ番組だということを理解した。(『トモ子のバウムクーヘン』本谷有希子)


乱暴な魅力があると思う作家がいます。本谷有希子、中原昌也、平山夢明、黒沢清など。何もバイオレンスな描写が多いからではありません。
共通点としては、飛躍です。文章の中では明らかに飛躍しているのだが、そこに飛躍するのか!という気持ち良さがあるのです。訳わからんけど、訳わかるという感触。

「ほんの一時間前のことだった。花屋の露店や靴磨きがいたはずの場所に、白い熱気球が落ちてきたのだ。
(中略)
そこへブルドーザーが到着。いちいち瓦礫など細かいものを片付ける手間を省き、いっぺんに整地を始める。その跡に派手な花壇でも作ればいいのだ。」
中原昌也『あらゆる場所に花束が……』
「その時だった。近所の福田さん夫妻宅が、大きな音を立てて爆発したのは。
(中略)
猛烈に上がった火柱の恐ろしさのせいで、誰もが圧倒され、消防車を呼ぶのを忘れてしまっていた。告げ口すれば、炎に復讐されるのだという暗黙の了解のもとに、人々は消火活動を忘れ、夏の花火大会のような雰囲気とは程遠いが、唖然としてただ眺めるだけだったのだ。恐怖を忘れるためにも、炎を眺める人々は缶ビールを必要とした。」
中原昌也『パートタイム・デスライフ』


また、映画において、黒沢清「回路」「散歩する侵略者」で唐突に戦闘機が出現するあの感じ、

キム・ギドクの映画「うつせみ」の、主要な登場人物が透明人間となる強引な展開。観たことのあるかたならば、共感のよすがでも感じてもらえるのではないかと思います。

この感覚は何か。ぶった切られている、という印象。感覚。
僕は、それは「笑い」に回収される感覚なのだと思います。
なおかつ、笑いの中でも圧倒的な強度を持つ種類の笑いだと感じています。

お笑いのネタで例をあげましょう。


ゴッドタン・マジ歌選手権 劇団ひとりのニワトリの回
(芸人が本気で作った歌、通称「マジ歌」を披露するという場において、ニワトリとして登場する)

劇団ひとり ニワトリ


「クイズ正解は一年後」で、来年のコボちゃんの漫画がどういうものかを予想するコーナーでの、野性爆弾・川島(当時)の回答
https://youtu.be/MvybO963b_w

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(こまったなぁ ママはいないし おちちも出ないし・・・)

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つまり、立川談志のいうところのイリュージョン、訳のわからないが、なぜか共感できるという笑いです。


落語に、頭の中にできた池に飛び込んで死ぬという話があるらしいですが、それこそまさにイリュージョンを端的に示していると思います。


はたまた、お笑いライブを見ていて、訳がわからないのにめちゃくちゃ笑った経験、YouTubeにあるものだけでも紹介すると、

・三四郎「ドラゴンボール」の漫才
(ドラゴンボールを途中までしか読んだことのない相田さんに、小宮さんがフリーザの変身形態を説明する際、第三形態を「エクレア風」と評したことに相田さんが「エクレア!?」と返し、「いや、エクレア“風”!!」というのだが、なぜか「風(ふう)」がきちんと言えず空気が大量に抜ける音になる部分)
https://youtu.be/BiIdqVG66nw

・街裏ぴんく「ホイップクリーム」
https://youtu.be/rt-i3ozKyAg

・かもめんたる「おかえり another ver」(特に、宇宙人の説明をしてる部分)
https://youtu.be/PO4SjMhPJwM

・ぺこぱ、M−12019の1本目の、「急に正面が変わる」というボケ、
・ハリウッドザコシショウの「誇張しすぎたモノマネ」
・友近「ヒール講談」
・かが屋「年金」
・シソンヌ「好きになっちゃう」
・笑い飯の漫才全般
・ダイアンの漫才全般
・千鳥の漫才全般

・・・など、枚挙にいとまがありません。

わたしの感覚では、それらの笑いには超越的なものを感じます。
つまり、社会の約束事でない、そんなものの外側にある、むき出しの、世界を見せられているという感覚。

スピードワゴンの小沢さんが、チュートリアルが2006年、M−1で優勝した時の漫才について、なぜ圧倒的だったか、それは「世界」を見せたからだと言っていましたが、全くその通りだと思います。
小沢さんの謂いは、「完成された一つの世界観」という意味だと思われますが、
「世界」というのは、一つではなく、認識の数だけあるので、矛盾ではありません。

社会の外側にある「世界」を、無理やり見せられた、その裂け目を、のぞけたような感覚です。そしてこの感覚は、僕に強烈な体験をもたらし続けています。
超越的ぶったぎりの感覚。
この感覚の顕現が味わいたくて、お笑いを見て、また、いろんなコンテンツを享受して、はたまたコントやなにやらを作っていると言っても過言ではありません。


・共感について

笑いとは、よく「共感」だと言われます。

しかし、それには社会的な共感と、世界的=超越的な共感の二種類があると思われます。

超越的な共感というとスピリチュアルな話との誤解を受けそうなので、

「神話=世界」的な共感、としましょう。

我々の住む社会は、啓蒙された社会です。
啓蒙された「社会」の中で「神話=世界」を感じさせる笑い、
それが、立川談志の言うところのイリュージョン、僕が言うところの超越的ぶったぎりの笑いなのではないかと思います。
そしてそれは、最も強度のある笑いだと思います。

強度のある、とは、具体的には、そこには真実があり、真実があるために、時代を経ても鑑賞に耐えうるものだという根拠のない確証が得られるということです。

・「社会」と「神話=世界」、日本とアメリカ


日本のお笑い芸人は、政治的スタンスをあまり取りたがらないことが、往々にして批判されます。

お笑い芸人が、政治的スタンスとの距離感を間違えているのをテレビやS N Sなどで目撃してしまい、そのあとでその人を見ても、なんだか笑いづらくなってしまったという経験は誰にでもあると思います。また、うまく政治的発言やスタンスを取っている芸人もいます。爆笑問題はその良い例だと思います。


なぜ、政治的スタンスを間違えると芸人は(少なくとも日本では)笑いづらくなってしまうのか、
それは、「社会」の文脈につかり過ぎて、「神話=世界」から遠ざかるからではないでしょうか。

そして、日本人は、啓蒙されきっていない、「神話=世界」の状態が、好きなのだと思います。

宮崎駿の『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『崖の上のポニョ』『となりのトトロ』
新海誠『君の名は。』『天気の子』といった監督たちの作品を見ても、随所にアニミズム的なモチーフや、都市対自然の相克、といったテーマが散見されます。

庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』、押井守『うる星やつら ビューティフルドリーマー』『攻殻機動隊』、北野武『H A N A―B I』など作品群には、天使や恩寵のイメージが頻出します。

また、新型コロナウイルスの渦中にあって、アマビエという妖怪の絵が、お守り的に出回ったり、
それは、江戸時代に地震を収めるために、鯰絵を描いて地震に対する祈りとしたことと、同じです。

日本人は、「神話=世界」に多くの共感と滋養を得て、生活の知恵としてきたのだと思います。
これは、アメリカ映画に「他者」との関係や「自由」をテーマにしたものが目立つのと、好対照をなしています。


アメリカのコメディアンが政治的なジョークを良くすることと対照的に、日本のお笑い芸人が政治的風刺ネタをあまりやらないことが批判されることがありますが、

アメリカという国は、そもそも、ネイティブアメリカンが持っていた壮大な「神話=世界」の世界観を、ヨーロッパ文明が殺戮し、「社会化」することで成立した国だからではないかと思います。なので、一般的なアメリカ人は、「神話=世界」に対する共感ではなく、「社会」に対する共感を強く持つのではないでしょうか。
おそらく、アメリカという国の成立過程に関する無意識の罪悪感をアメリカ人は共有しており、また他民族社会であるアメリカ社会を成立させている、ある種の建前(人種間に貴賎はなく、能力や地位は平等だ、といったような)のウソを暴露するという形で、現在の社会の存在を批判的に肯定するという機能を、アメリカのコメディアンの笑いは担っているのだと考えられます。それはアメリカ文学がアメリカという国をまとめ上げるために担ってきた機能と、根本的には同じものだと考えられます。

なので、日本のお笑いとアメリカのコメディ、特にスタンダップコメディは、成り立ちからして違うのです。

余談ですが、日本の「笑い」の輸出がうまくいかない背景には、そういったことがあると思います。
(でも、映画は輸出できても笑いは輸出できない理由はなぜなのでしょうか・・・それについてはまたの機会に考えたいと思います)


・掃除機的な、大雑把なまとめのようなもの

なにも、「神話=世界」というのは、神道的な世界観であるとか、アニミズムであるとか、キリスト教的、イスラーム的、仏教的世界観、総合すると宗教的世界観のみを指すものではありません。

「神話=世界」というのは、「意味のない世界」であるのです。

千葉雅也さんの概念に、「意味がある無意味」「意味がない無意味」というものがあります。

「意味がある無意味」とは、無意味であることに意味がある無意味、つまりナンセンスであることに価値があるものです。
それに対して「意味がない無意味」とは、意味のないことにも意味がない無意味。

意味、それは「理解」とも言い換えられる。合理的であるような理解である。また、ここには「共感」という問題もある。合理的な理解の外部---つまり、非合理性について私は何かを考えている。共感の外部ーーー我々が(また、事物一般が)別々に分離された状態、あるいは無関係について、私は何かを考えている。                        私が思い描いているのは、「意味の広大な外部」といった開放的なイメージではない。むしろ、意味の雨が降り注ぐなかで、縮こまって自らを防御している建築物のようなものーーーそのような、「閉じられた無意味」なのである。                               (中略)                              私はここで、その無意味を〈意味がない無意味〉と呼ぼう。意味がない無意味は、〈意味がある無意味〉に対立するものである。          (千葉雅也「意味がない無意味ーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味』所収)


剥き出しの「世界」とは、千葉のいう「意味がない無意味」のことを指すのだと考えられます。
なぜなら、「意味がある無意味」は社会的な文脈において通用し、「理解」されることが期待されているからです。

それでは、これまで擁護してきた「神話=世界」に接続する笑い、イリュージョンというのは、全く荒唐無稽な、気狂いのうわごとのようなものでしょうか。
私はそうは思いません。
もちろん、社会的な共感を示す文脈が全くなければ、ただのうわごと、宇宙人の話す言葉になってしまうでしょう。

限りなく「意味がない無意味」=「神話=世界」に漸進的に近づいて接続しようとする「意味」、ギリギリ「社会」に戻ってこれるそのとんぼ返りを示す身振りが、超越的ぶったぎりの感覚を呼び起こすのです。

月にタッチして帰ってくる身振り。それこそが、圧倒的な、強烈な笑いの感覚なのだと思います。


最後に、音楽の分野から、僕が超越的ぶったぎりの感覚になるものを紹介して終わります。

スピッツ「みなと」

汚れてる野良猫にも いつしか優しくなるユニバース
黄昏にあの日二人で眺めた 謎の光思い出す


ゆらゆら帝国「グレープフルーツちょうだい」

さっきからあなたの目の前でおとなしくうなずいているだけのぼくだけど
頭の中ではいよいよたいへんなことがおこっています
あと10秒数えるあいだにここからどこかへ消えてくれないと
お前の大事な冷蔵庫の中身を全部食っちまうぞ
グレープフルーツちょうだい
グレープフルーツちょうだい
グレープフルーツちょうだい


たま「鐘の歌」

都に春が来ればいつもさびしい子供がいなくなる
都に春が来ればいつもさびしい子供が行方不知だ
それはみんなさかな釣りに行っちゃったのだから
さがさないでさがさないでよ

参考文献


千葉雅也『意味がない無意味』
宮台真司『わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか』『〈世界〉はそもそもデタラメである』
本谷有希子『異類婚姻譚』『来来来来来』
中原昌也『あらゆる場所に花束が……』『子猫が読む乱暴者日記』『パートタイム・デスライフ』
フリートマル・アーベル『天への憧れ』
早稲田文学増刊号『「笑い」はどこから来るのか?』
岸田國士戯曲賞選評
松本大洋「ピンポン」

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