私たちは、こう見た。『クリスチャン・ボルタンスキー - Lifetime』展
この間、友人5人とクリスチャン・ボルタンスキーの展覧会に行ってきた。展覧会タイトルは『Lifetime』(ライフ・タイム)。日本初となる大規模な回顧展で、過去50年の作品を一挙公開! というわけで前日からワクワクがとまらない。
はい、ボルタンスキー作品が好きです。
越後妻有の《最後の教室》を見た、あの日から。あの作品は、廃墟のような小学校の雰囲気と作品世界が見事に響きあい、凄まじい引力を生み出していた。廃校の体育館いっぱいに漂うむっとするような干し草の匂いと、ゴーゴーという機械音と共に吹き抜ける生暖かい風、そして真っ暗い廊下の先で刻み続ける、心臓の音(しかも超デカい爆音だ)。一見、奇をてらっているようでありながら、そのメッセージはとてもストレート。
それは、この廃校にもかつて人間がいたということだ。
彼の作品世界を一言で表すなら、いま生きる人、そしていなくなった人々の生の痕跡の収集だろう。彼は心臓の音を収集するプロジェクトも行なっていて、瀬戸内海の豊島には《心臓音のアーカイブ》という名の作品もあり、そこでは世界中の人々の心臓音を保存している。また自分の心臓の音を録音することもできる、というものだ。
知らないという聖域
さて、今回向かったのは、乃木坂にある国立新美術館である。大人になって、平日の昼間からゾロゾロと連れ立って美術館に行く機会ってあんまりない。単純に遠足みたいで楽しい。
メンバーは、マイティ(水戸芸術館勤務)、白鳥建二さん(盲人の美術鑑賞家)、友人・まゆみさん(行政書士・通訳)、市川勝弘さん(カメラマン)、河井さん(編集者)、そして私。重苦しくシリアスな雰囲気の作品をみるわけだが、どこかノホホーンと明るいメンバーである。展示を前にした私たちの会話はこんな感じ。
「ボルタンスキーって確かフランス人だったよね」「あれ、セルビアとかじゃなかったっけ」「いや、フランスだったと思う」「名前はロシアっぽいけど」「確か、奥さんも現代美術家だったような」「そうなんだ」
白鳥さんは私のnoteにも何度か登場しているが、もう20年以上も現代美術作品を見続け、様々な美術館で鑑賞ワークショップも行なうガチな”美術鑑賞家”だ。繰り返しになって恐縮だが、白鳥さんは目が見えない。だから、目が見える私たちが、それぞれの言葉で作品を表現しながら、みんなで一緒に作品を見る。(詳しくは以下のnoteを)
世の中では「対話型鑑賞」とも呼ばれるらしいが、私たちの鑑賞はメソッドもへったくれもなく、「なにこれ、すごいね」「びっくりしたー!」などと、自由に印象や感想を言い合うだけだ。そこには、多少のボキャブラリーは役にはたつが、それ以外は何の知識もいらない。
ちなみに、こうして言葉を駆使してみんなで一緒に鑑賞をするためには、白鳥さんのプレゼンスがほぼ不可欠である。目が見えない彼がいるからこそ、私たちはごく自然に、時には無理矢理にでも言葉を発し、言葉のエクスチェンジを繰り返していく。そうしているうちに、見える人も見えない人も、それぞれに作品の輪郭が見えてきて、自分の中でその意味を探っていく、そんな生き生きしたプロセスだ。「ほぼ」とつけたのは、もちろん対話型鑑賞は視覚障害者がいなくても成立するからだ。ただ、いてくれた方が(私たちの場合は)盛り上がるので、すぐ白鳥さんを呼んでしまう私たちなのであった。
そうそう、最初に断っておくと、私もマイティも白鳥さんも作家・ボルタンスキーの経歴や作品背景とかについては全く詳しくない。特にまゆみさんはボルタンスキーのことを聞いたこともなく、作品を見るのもこれが初めてだ(今回は私が声をかけてみた)。
いいねえ、ボルタンスキーが初めてなんて最高! 羨ましい。
知らないことは素敵なことだ。だって、この世には情報が溢れかえっていて、知らないうちに目の前に飛び込んできて、素通りさせてくれない。目の前にやや暴力的に差し出される情報は、時に気分のチューニングを狂わせたり、落ち込ませたり。だから、「知らない」という状態はむしろ貴重なことで、それこそが自分で守るべき「聖域」なんだと思う。
そう、だから全く矛盾しちゃうんだけど、これからこの展示を見ようと思ってる人には、この文章を読むことはおすすめしない(これは私の備忘録なのです)。そういうかたは、ここら辺でぱっと画面を閉じ、ただ軽やかに美術館に向かってください。ぜひよろしくお願いします。
《咳をする男》
さて、私たち6人は展示室に入った。すぐに現れた作品は、『咳をする男』と『なめる男』という映像作品。作品の内容は、ずばり、それぞれのタイトル通りだ。
ゲホゲホゲホ、ぐえー、ぐえー、ゲッゲゲッと苦しそうな声が画面から大音量でほとばしる。映像は、胸糞がムカムカするほどにリアルで、男が発する血痰混じりの咳は、もはや内臓が飛び出してくるんじゃないかと思うほど壮絶。しかも男は廃墟のような場所に一人きりで置き去りにされている。
ひええ、こういうのか。そうだったのか……。と内心小さな動揺が走った。これは全く意表をつく展開だった。
私が今まで見たボルタンスキーの作品には、こういったリアルな映像作品はなかった。そして、私が持つボルタンスキーの作品のイメージは、凛と美しく、幾何学模様のように整然とし、「生」の混乱や生々しさを感じさせるものはなかった。
━━彼は死んでしまうのだろうか。このまま映像の中で死んでしまったら嫌だな。見たくないな。と私はぼんやり思った。
「めちゃくちゃ苦しそうだね」
私たちは遠巻きに映像を凝視した。口からは、ピュピューと血液が飛び出していく。もう十分だ、と感じたちょうどその頃、次の映像に切り替わった。《なめる男》の登場である。奇妙な仮面をかぶった男が、女性の人形をなめまわしているのだが、「なめる」というよりもめちゃくちゃ執拗に吸い付いている感じだ。これもまた、胸がムカついて仕方がない映像である。
作家による作品解説:《咳をする男》はボルタンスキーが制作した最初の映像作品であり、一人ぼっちの男が血を吐く苦しそうな様子を見せている。以下略。《舐める男》は、仮面をかぶった男が女性をなめている。その女性とは言うまでもなく等身大の布でできた人形にすぎないのだが、どこか秘密めいた幻想的な儀式を思わせる。
さらに進むと、ピカピカした青い電飾で文字が描かれていて、そこには『DEPART』とあった。バーに誘うようなキラキラしたLEDの光は、薄暗い美術館内でどこか異質である。
デパート? なんのこと? これも作品のひとつなのだろうか。
意味がわからないのでとりあえずスルーし、本格的に展示を見始めた。
そこには、ピントがボワっとしたモノクロのスナップ写真がピシッと整然と並んでいた。そう、これこそ、ボルタンスキーの作品という感じ。
まずは、白鳥さん以外のそれぞれが、見えたものをそのまんま口に出していく。
マイティ「A4くらいの紙に縦が15列で横が10個。150枚くらいあるのかな?上の方にライトがあって写真を照らしてるんだけど、はっきりは写真が見えないの」
有緒「なんか戦前のヨーロッパの写真みたい。ここに移っているのはみんな大家族だな。バカンス中かも。海辺の写真とかパラソルとか」
白鳥「じゃあ、楽しい系?」
有緒「そうだね、楽しそうだな。赤ちゃんもいるしね。ワイワイした感じ」
まゆみ「ひとつひとつの写真はメタルな感じの銀色のフレームにはまってるの」
市川「ラルティーヌっていう有名な写真家の写真に似てるね。ちょっと裕福そうな感じの人が写ってるね。柔らかい写真なんだけど、フレームでぐっと硬さを作って閉じ込めてる感じ」
まゆみさんは今日初めて白鳥さんに会ったばかりなのだけれど、ほとんどためらうことなく、その綺麗な声で作品について話し始めた。それを見て、うん、うん、いい感じだなとほくそえんだ。当てずっぽうの印象だけど、まゆみさんと白鳥さんはきっと気が合うんじゃないかなーという予感があった。そういうのが当たった時って嬉しくないですか?
そのあとも、古いモノクロ写真を使った作品が続く。しかし、その間も休みなくあのとんでもなく苦しそうな咳が会場に響き続けているのだ。別の作品から発する関係ない音だとわかっているのに、どうしてもあの苦しみが、生きることの残酷さや生が燃え尽きようとしている寸前の瞬間を想起させ続けて、どこか落ち着かない。
《心臓音》
さらに進むと、心臓音が大音量で鳴り響く部屋があった。普段は絶対に聞くことがない爆音の心臓音に合わせて、電球の光はトントンと大きくなったり小さくなったり。延々とそれが繰り返される。
「心臓音とか聞くとどう感じる?」と私は白鳥さんに尋ねた。
「いや、いやだな。やな感じ。不穏な感じだな」(白鳥)
その時まゆみさんがふんわりとした声でいった。
「私はわりと好き。生きている感覚がある。お腹に赤ちゃんがいる感じ。さっき写真の家族が急に生きている感じがしてきた。ちゃんとみんなそれぞれ生きたんだなって思うのは、この心臓の音がするから」
同じ音なのに、その感じ方は真逆だった。しかし、このまゆみさんの言葉は、白鳥さんの心に届いていたらしい。後から白鳥さんは、「今回まゆみさんがいてとてもよかった」と私に語ったからだ。それまで、白鳥さんはボルタンスキー作品は「陰鬱で、あまりいい気分にならない作品」という印象が強かったという。しかし、まゆみさんの存在がその印象を覆してくれたそうだ。
心臓音を聴き始めてしばらくすると、マイティが唐突に言った。
「ねえ、さっきすごい高いところにデジタルの数字の表示があったでしょ。ほら、あそこ。数字が読めないくらい(巨大な位の数字)なんだけど。あれと心臓の音が連動している気がするんだよね」
みんな後ろを振り向くと、確かに少し手前の部屋には、なにかの数字を刻む電飾のカウンターがあった。実験室か競技場にでもありそうな工業製品っぽい無機質な壁かけのカウンター。それが莫大な数字を刻み続けている。
「あ、ほんとだ!」(一同)
マイティ「桁が大きすぎて 2億3千.......、いや、23億6千かな」
白鳥「カウントしてるんだ。何色のデジタル?」
まゆみ「赤と黒ですね」
あれは、いったいなんだろう。確かに心臓の音と連動しているようにも見える。
あ、もしかしたら、心臓の鼓動の回数なのかなあ。
そう話しあってみるものの、答えはない。このボルタンスキー展では、文字情報が100%排除されている。まるで、解説することを頑なに拒むように、作品タイトルも何もない。私たちに与えられている手がかりは作品そのものだけ。だから、数字カウンターの謎は、謎のままにしてとにかく前に進むしかなかった。
その後も、またモノクロの写真とランプを使ったインスタレーションが続いた。光が美しい作品なんだけど、その特徴的のひとつは、作品の上のほうに据えられたランプの光があまりにもダイレクトに写真にあたっていることで、全員がそこに強烈な違和感をもった。
有緒「どうしてここまでダイレクトに光を当ててるのかな。そして。光が当たっている割に写真はボケていてよく見えないし」
白鳥「ああ、そうか。じゃあやっぱり写真はよく見えないんだね」
市川「写っている人に対して暴力的な感じがあるよね」
マイティ「そうだよ、ライトが近すぎるよ」
白鳥「そっか、近すぎるんだ」
まゆみ:「近すぎて、入り込んでいくみたい。きっと、彼はこの人たちの中に入りたかったのかな。最初に映像でも男がしつこく人形に吸い付く感じが、一方的に誰かに入り込もうとしている感じがしたんだけど」
誰かの中に入り込みたいというよりまゆみさんの見立ては、どこか私を納得させた。確かに彼ほど死者の遺物にこだわる作家もなかなかいないだろう。しかし、そこと矛盾するかのように、一人一人の生には興味がない感じもする。心臓の音、写真や衣服など生の証拠を執拗に集めながらも、それぞれの個人の顔はぼやかされている。そうすることにより、大きな死者の集合体のなかに収斂されるのだ。
《ぼた山》
さて、いよいよこの展示のひとつのハイライトである。広い展示室の中心に、黒っぽくて一見ゴツゴツした山が作られている。
まゆみ「目の前に大きな山があります。何かが積み重なってるの。高さ4メートルくらいかな。きれいな山の形です」
有緒「黒い布かな。近づいてみると何かわかるかな」
まゆみ「ああ、シャツ! いや、ジャケットだ。真っ黒ジャケットがバサバサと積み上げられてる」
ジャケットでできた山の上の方には、大きく引き伸ばされた大勢の人々の写真がゆらゆらとぶらさがっていた。まるでこのジャケットを来ていた人の遺影のようだ。
ふっと、大量虐殺がデーマかなあと思った。もしかして、ホロコーストだろうか?
「これってホロコーストと関係あるのかな。実際の犠牲者の人のジャケットとか。それにしては全部似たようなジャケットだからそれも違うのかな。何かの”記号”としてのジャケットなのかも」
そう私は口に出してみたものの、やはり答えはない。
それよりも、もっと気になるものが目の前に現れた。等身大の変てこりんな人形である。
マイティ「あれは、なんだろう! 黒いコートを着た木の棒で、人が進もうとしているような形のもので、頭はランプなの」
言葉が妙に説明的なのは、白鳥さんに伝えるためだ。広い空間にポツンポツンと立つこの異形の人々が立っている。これはいったいなんだろう?しかも、近くにいくと何か声が聞こえてくるではないか。
有緒「声が聞こえるよ」
白鳥「うん、聞こえるね。さっきからしゃべってるよ」
耳を済ますと、人形から柔らかな声が聞こえた。
「ねえ、聞かせて。突然だったの?」
思わずドキッとした。私はさらに耳を澄ませた。
怖かった? 聞かせて。意識はあったの?
聞かせて。一瞬だった?
どうやら、この人形は、死の瞬間について質問をなげかけているらしい。
ソフトな口調だが、どこかレポーター風の声で、逆に冷淡で暴力的な質問にも感じさせる。
ねえ、あなたは飛んでいったの?
光が見えたの?
ねえ、聞かせて。突然だったの?
突然というからには、やはりホロコーストのように無差別に殺された人たちなのだろうか。私はそのまんま口に出してみる。
有緒:「殺された人なのかな?」
河井:「光っていうと原爆なのかなと思いました」
原爆か。そう言われれば、そんな気もしてくる。
私たちはしばらくこの人形の前で立ち止まり、それぞれの考えを話し合った。その間にも人形は柔らかな声を機械的に発し続けている。
ねえ、あなたは飛んでいったの?
「ねえ、これって絶対に本人に聞こえない質問だよね」
マイティが少し呆れたような声で指摘する。うん、その通りだ。彼らは死んでいる以上、絶対に答えられない。死のその瞬間にどう感じるかなんて、私たちは自分が死ぬその瞬間までわからない。
私は誰かが死ぬ場面には一度しか立ち会ったことがない。父が亡くなった14年前が唯一の体験だ。その時、父の意識はすでになかったものの、顔はむくみ、土気色で、どこか苦しそうだった。いや、苦しかったのは自分の方だったのかもしれない。いま、まさにこの瞬間、死神が父を連れていこうとしている。この前まであれほど元気だった父を。
心臓の鼓動がゆっくりになっていくと、お医者さんが慌てて何かを注射をして、そのあと少しだけ心拍数が早まった。しかし、死神の勝利はもはや明らかで、父の心臓はみるみる弱々しくなり、自転車のペダルがゆっくりになって回転をやめるみたいに、心臓はあるとき動きを止めた。5月の日の朝方のことだ。
ねえ、あとととき苦しかった? 怖かった?
もちろん答えはない。パンフレットによれば、あの異形の人形は、『発言する』という作品で、彼・彼女らはあの世への門番なのだそうだ。
気がつくと、同じ部屋のすみには、映像が投影されていた。それは、風鈴が揺れている映像で、ただ無数の風鈴がただ風の中で揺れ続ける、それだけのものだ。生き物も現れないし、変化もほとんどない。パンフレットによれば作品タイトルは《アニミタス(白)》。アニミタスは、「小さい魂」という意味だということはどこかで読んで知っていた。
風鈴は揺れる。まるで死んでいった人たちを見送っているように。
映像を見ながら、マイティが言う。
「風が吹いて揺れるということで、逆に作品に生を感じるようになったな。だって、(人間が)いなくなっちゃうと、それがないじゃない?さっきまでのモノクロ写真は、動かなくて、更新されることがなかったけど、今は時間を刻んでるという感じがするんだ」
その後でクジラの骨などを映した映像作品や、莫大な量の古着が吊るされた部屋などが続いた(詳細はここでは書かないでおく)。途中で、また最初と同じような青いピカピカした電飾の文字が現れ、『来世』とあった。漢字で書かれてしまうと、どこかコミカルで、私たちは「来世ってことはいま私たちは死んじゃうのかな!」「来世、いきまーす!」と笑いながら、進んでいった。
友人たちと会話しながら見ていくことで、じわじわと作品の核心に入っていく感じがあった。それぞれの感性、経験や感想を自由にシェアしていくことで、最初はわからなかった作品の輪郭が浮かび上がってくるのだ。
そして、いよいよ展示は終わりだ、というその時に、入り口の「DEPART」と同じように再び青い電飾で形どられた文字が現れた。
「ARRIVEE」
“ARRIVEE”って、フランス語じゃないか。
意味は「到着」。
そうか、そういうことか!
このときになって、ようやくなぜ展示の始まりにあったのは「DEPART」だったのか。なぜ途中で心臓音が聞こえてきたのか。なぜ無機質なカウンターが莫大な数字を刻み続けているのかがわかった気がした。
そうだ、展覧会タイトルはまさに『Lifetime』(ライフ・タイム)じゃないか。
人生には始まりがあって終わりがある。そう、心臓が音を刻み続けるのは行きている間だけだ。あの心臓音はアーカイブされたものだけれど、一方で数字のカウンターはいつか動きを止め、その数をピタリと止めるに違いない。人生の最後に、全ての心臓が止まるのと同じだ。
「DEPART(=出発)」で始まった展示は、「ARRIVEE(=到着)」で終った。
無数の名前も知らない、誰かの人生のように。
その後
その夜、私たちはお酒を飲みながらさらに色々なことを語り合った。死ぬ瞬間のこと。過去に去っていってしまった人々のこと。理想の死に方。
ちょっと酔っ払いながら、私は「ボルタンスキーは死者をリスペクトしてたのかなあ」と呟いた。だって、なんでボルタンスキーはあんなにしつこく、死の瞬間について聞くんだよー。おかげで、色々考えちゃうじゃないか、と腹立たしかった。
実は私は、死者への執着がことさら激しいようで、ふとした瞬間に、先に死んでしまった友人たちのことを思い出しては、ねえ、みんなどこに行っちゃったの? どこにいるんだよおおお! と叫びたくなる。人の肉体は、その消滅とともに全てが「無」になるのか、それともどこか別の次元に存在しているのか。彼らには本当にもう二度と会えないのか。一回その答えのない思考のループにハマると、延々と考えてしまって、その執着と衝動によく翻弄させられてしまう。
そして、私は自分の「生」への執着もけっこう強いようなのだ。少なくとも平均寿命程度には長生きしたい、いや、絶対にしたいです、お願いします、と何か遠いものに向かって日々念を飛ばしている。いや、若い頃は長生きとか健康とか考えたこともなかったんだけど、父や何人もの友人がもあちら側の世界にいってしまったあと、むしろ生への執着が激しくなってしまった。その衝動もまた、私を戸惑わせるものだ。でも、願わずにいられない。許される限り長く生きて、自分が好きな人たちが喜ぶ時は一緒にいたいし、悲しむ時も一緒にいたい。今になって、世のおばあちゃんたちの「孫の顔の見たい」という身勝手で、ウザいリクエストまでもが理解できるようになった。
しかし、私がそんなことを話すと、白鳥さんは逆に「自分のことに関してはどっちでもいいな。明日死んでもいい」と静かに答えた。
「えー、奥さんが悲しむでしょ」
そう突っ込む私に、白鳥さんはいつもと同じ柔らかい口調で答えた。
「いやあ、どの時点で死んでも、結局は後悔するような気がするの。何かをやり遂げたら満足、もうこれで死ねるっていうのはない気がするんだ。だから、俺はそこは望んでない。それで、過去も過ぎ去っていくとどんどん忘れちゃうじゃない? そうすると結局わかっているのは『今』だけなんだ。だから、俺は今だけでいいかなと。過去とか未来とかじゃなくて今だけ」
何かをやり遂げればそこで満足とはならない、というのは的を射てると思う。振り返ってみれば、私はこの46年間で、いくつもの学校を卒業し、いくつかもの会社に勤め、たくさんの旅をし、いくつもの国に住み、いくつもの言語を習得し、大勢の人に出会い、本やら映画やら色々なものを作ってきたわけだど、それでも「やった!やりとげた!」という感情はとても刹那的で、ひどい場合は1日くらいしかその幸福感は続かない。だから、いつ死んでも後悔の度合いは同じ、というのはひとつの真理なのかもしれない。
カメラマンの市川さんも、ニコニコしながら「僕も同じ考えだな」という。
「死は誰にでもやってくるもので、死というものには、幸せな死もあれば、幸せではない死もある。多くの場合は、死には辛いイメージがあるんだけど、でも僕は、その最後の辛いイメージではなくって、その手前の、その人がもっと幸せだった時を覚えておきたいと思うんだよ。僕はいまお袋が94歳なんだけど、今年は正月に会ったきりなんだ。それで、今日急に亡くなってしまったとしても、それはそれでしょうがないと思う。生命って自分の力が及ばなくなるわけだよね。それは、どうしょうもないじゃない? だから、人生は、出会いと別れの繰り返しなわけだから」
そっか。
私もいずれ白鳥さんや市川さんみたいな境地にいきたいけど、まだまだそこには行けないや!と言いながら、私たちはビールを飲み続けた。思い返すと、まゆみさんはその時多くを語らなかったけれど、「私も有緒さんと似ているな」とだけ話してくれた。たくさんのビールとワインが空くと、それぞれの家路に着いた。
そのまゆみさんからは、数日経ってからこんなメッセージをくれた。きっと、彼女もまたずっと何かを考え続けていたのだろう。
「(『来世』の後の)服が壁中にぶらさがっている部屋は、次に生まれ変わるとき、この中からあなた好きなのを選びとっていいよ、次の人生の魂の入る肉体、という選択肢に見えたんだけど、そのどれも、選びたい気がしなかった。それはきっと、そんなほかのだれかを自分が着て生きることを、いまの自分は全く興味が持てないからなのだろうな。それも含めて、いまここにある生に没頭することを、死が確実に来ることをいろんな方法で見せながら感じさせようとしてもいるのかなあと思いました」
生きて死ぬ。生きているのは今しかない。
そこには風が吹いて海鳥の鳴く潮の匂いもする海もあれば山もある。だけど、死んだら骨だけ、感じることはできない、そこを駆け抜けているところなんだ、と意識させられました」
うん、そうだね。私たちはいま生きているよね――。
それだけでいいのかもしれない――。
(全ての写真:市川勝弘)
-----------------------
『クリスチャン・ボルタンスキー - Lifetime』は9月2日まで。
展覧会概要:現代のフランスを代表する作家、クリスチャン・ボルタンスキー(1944年-)の活動の全貌を紹介する、日本では過去最大規模の回顧展です。作家は1960年代後半から短編フィルムを発表、1970年代には写真を積極的に用いて、自己や他者の記憶にまつわる作品を制作し、注目されます。1980年代に入ると、光を用いたインスタレーションで宗教的なテーマに取り組み、国際的な評価を獲得。その後も歴史や記憶、人間の存在の痕跡といったものをテーマに据え、世界中で作品を発表しています。
本展では、50年にわたるボルタンスキーの様々な試みを振り返ると同時に、「空間のアーティスト」と自負する作家自身が、展覧会場に合わせたインスタレーションを手がけます。(国立新美術館ホームページより)
詳しくは→https://www.nact.jp/exhibition_special/2019/boltanski2019/