第9話 短編小説『蠱惑の森』
気がつくと、森の外にいた。
森の外に走る小道に立っていた。空気はカラリと軽く澄んでいた。
先ほどまでいた森で吸い込んだ息を、小道でふうっと吐き出した。
わたしの中に、森は無くなった。
目の前森は、相変わらず、湿り、揺れ、鳥がざわめき、実が熟れている。
その森から、外へ出てしまった。
出て、しまったのだ。
わたしは戸惑い、同時にほっとした。
爽やかな小道に立ち、森をじっと見つめた。
澄んだ小道と森の間は、明らかに、ずれていた。
もう2度と、ここには足を踏み入れることが出来ないことを示していた。
万一、何かの弾みで踏み入れることがあったとしても、これまでのように、森がわたしを長時間誘惑し続けることは無理だろう。
森は私を放出した。
いや、わたしが森から滑り出てしまったのかもしれない。
わたしがつるりとしてしまったからだ。
森が纏わりつくことができる、隙間もささくれも、瘤もすっかりなくなった。
わたしが異臭に気づき、森に興味を失ったからだ。
何度も酔わされた甘美な香りの奥に、ひっそりと盛られたカメムシの毒香を、
今のわたしは瞬時に嗅ぎ取れる。
からめとることもできず、香に酔わせることもできない。
森は、わたしをあきらめた。
呆然と、目の前の森を眺めた。
「ああ、終わったんだ」と肩の力が抜けた途端、猛烈に寂しくなった。
散々翻弄され、持て遊ばれて苦しんだ場所だった。
しかし、わたしは明らかにその森の虜だった。
急に、止みがたい望郷の念に襲われた。
心はまだ森を希求したままだ。
戻っても、もはや虚しさしか感じないことを知りながら、希求した。
それほど、わたしは長い間森に馴染み、森を堪能していたのだ。
森には、物語が溢れていた。
歴史が、ロマンが、事実のふりをしたフィクションが溢れ返り、私は耽溺した。
ああ、懐かしい!
そして、
ああ、もはや、つまらない…
強烈な喪失感とほのかな達成感の中で、夜通し泣きじゃくった。
嗚咽をあげて泣いた。
訳のわからない感情だと最初は思ったが、苦味と甘みの混じった青春の時を味わい尽くし去る、高校の卒業の日に少し似ていることに、気がついた。
一度卒業した学び舎に、再度戻っても仕方ない。
どれほど懐かしんだとしても、味わい尽くした空間は、もはや面白いはずがない。体はよくよくわかっている。心だけが希求している。
心のために涙が枯れるまで泣き尽くす以外、やることはなかった。
2018年7月某日夕刻。わたしは唐突に、蠱惑の情動と虚構の森を卒業した。