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【言論】勝ち負けを競うの、やめませんか?

僕は運動が嫌いだった。

幼稚園の頃からずっとかけっこではビリ。
小6の運動会では僕がバトンゾーンを踏み越えてしまったためにクラスが失格を食らってしまった。
中学の部活動は剣道部だったのだが、やはりそこでも負け続き。柄にもなく主将として大将戦をこなしたりもしたが、結果は予選敗退だった。

クラスマッチではチームメイトに「真面目にやれよ」と白い目で見られた。
僕は真面目に、それどころか必死で足を引っ張らないよう努力したつもりだったが、チームにとっては常にお荷物だったに違いない。
面と向かってお荷物呼ばわりされたことも何度もあった。

さて、僕はどうして運動が嫌いだったのだろう。答えは単純で、「できない」から嫌いだったのだ。

でもここには少しばかりの疑問が残る。
なぜ「できない」と嫌いになってしまうのか。そこに必然性は存在するのかという問いだ。「できない」ものは嫌いになるしかないのか、「できない」ものは評価してもらえないものなのか。

僕がどうしてそのことを考えるようになったか、それは今現在、僕が週に40~50kmは走る人間だからだ。あれだけ運動が嫌いだと思っていた自分が、何の苦もなく数十kmの道のりを走る。
それどころか走ることがすごく楽しい。
長い距離を走りきる度、走る自分が好きになれる。

僕が嫌いだったのは運動ではなく「勝ち負け」だったのだ。

今、日本で行われている運動競技や学校での体育は基本的には「勝ち負け」をつけるものが多数派と言って良い。(例外があることはもちろん承知の上だ。)

一流のアスリート達が勝利の為に努力を積み重ね、周囲の人間もそれを応援しない理由などない。僕もそんなアスリートを尊敬する。

だが一方で、運動の楽しみが「勝ち負け」に大きく左右されるものであるかのように我々は錯覚してしまってはいないだろうか?

誇張して言えば無意識下で「勝ち負け」が全てになってしまっている人々もいるはずだ。(自分の周りにはそういう人間も多かった。運動が苦手だった自分も含めて。特に子どもはそうだ。)

少し穿ったものの見方だと思われるかもしれないが、僕は「勝ち負け」に楽しみを見いだすこと自体があまり誉められた価値観 だとは思わない。どこか非知性的で動物的な衝動に近い何かを、僕自身の「勝ち負け」観に見てしまう。

思えば社会は「勝ち負け」という価値観にあまりにも毒され過ぎている。「競争の原理」に縛られ過ぎているのだ。
大学受験や各種採用試験、スポーツ、政治、あらゆる面で「競争の原理」が顔を覗かせる。

無論、「競争の原理」が社会にもたらした恩恵もたくさんある。僕達の暮らす社会自体が「資本主義」あるいは「新自由主義」等といった「競争の原理」の恩恵によって成立している。

だが、あたかも「競争」することが当たり前であり全であるかのような誤解もまた広く浸透している。

勝たなければ意味はない。

他人に認められなくちゃ意味はない。

当然といえば当然だが、そのような価値観が世界の全てではない。
僕のマラソン姿はこれまで1度も他人に見せたことはないし、自慢をしようとも思わない。

むしろ、あることを「自律的」に選択し、それを達成することだけが僕にとっての運動の楽しみだ。

運動をしている全ての方と運動を指導している全ての教育者の中に、もっとその考え方が当たり前に根付いてくれればとおもう。

そうすればきっと、子どもの頃の僕は運動嫌いにならずに済んだ。

「苦手なことは嫌いになってしまっても仕方がない」なんてことは無いのだ。

好きなことも苦手なことも平等に愛せるのだという発想を持つべきだ。
苦手を少しでも得意にしてあげようじゃなくても良い。得意であることが良いことだという価値観の枠組みそのものを取り払ってしまえば良い。

これが僕にとって都合の良い主張であることは理解している。

運動が得意で、勝つことが好きな人からすれば、無茶苦茶な主張に見えるかもしれない。

「勝ち負け」や「上手さ」に価値の重点を置くのではなく、「自律的な選択」と「自己目標の達成」にこそ重点を置いてほしい。誰しもが運動を仕事にしているわけではない。むしろ運動の本質は「遊び」だと言える。そのはずだったにも関わらず、僕達は運動にあろうことか資本主義やらなんやらの「競争の原理」を持ち込み、価値観を一本化させてしまった。

それらの価値観が完全な誤りで、全てを排除するべきだとは思わない。

だが、少なくとも「自律」や「個々の目標達成」を認める価値基準が無視されて欲しくはない。「できる」が全てじゃない。「できない」ことに自分なりに挑戦し、それをどこまで突き詰めることが出来るのか、そこに人間的な価値を見出だしたい。

これは根っからの運動嫌いからの、切実なメッセージだ。