かくして21世紀のマーケティングはPRになった
「外見は内面の一番外側」
という言葉が途中から頭に浮かんできた。
前回の広告に引き続いて、今回はパブリックリレーションズについて4冊の本を読んだ。
四者四様でありながらいずれも面白く、楽しい読書体験だった。
一方で、これらの本を読んで今の時代の面白さとともに、薄々わかっていたはずの難しさも明確に受け止めざるを得ず、私はこれからビジネスマン/マーケターとして、あるいは生活者として、そもそも一人の人間としてどうやって生きていくべきかという問いを突きつけられたようでもある。
僕らはますますオートで動いていく
まず1冊目は名著「影響力の武器」である。
この本は様々な具体的事例と心理学実験の成果をもって、人間が自らの判断をショートカットする際に使う6つの要素「返報性/一貫性/社会的証明/好意/権威/希少性」と、それを利用した「人に承諾させる」技法の数々について解説している。
もちろん上記の要素についての圧倒的な説得力がこの本の名著たる最大要因であるのだが、私が感動したのは著者のチャルディーニ教授がこれらの危険な要素について「だからショートカットなんてしないで、一つ一つの物事をちゃんと自分の頭で考えよう」とは決して言わなかったことだ。
すなわち、利用できるデータのほんの一部の特徴に頼って、愚かな決定を下してしまう傾向があるにもかかわらず、流れの速い現代の生活では、私たちはこの種の思考の近道を頻繁に使わざるを得ないということです。
:【影響力の武器[第三版]】より
そう、現代社会を生きる私たちにはもはやショートカットしないで済ませることなんて出来はしないのだ。
情報の大爆発は、その端緒において「どんな情報もインターネットにアクセスするだけで手に入る素晴らしい時代の幕開け」と捉えられていたが、実際に起ったのは、自分にとっての「良いモノ」の情報を探すことすら困難な情報洪水とも言えるような事態だった。
私たちは自分が興味を強く持っている幾ばくかのモノやサービス以外のほとんどの経済行為について、よく吟味して買うというようなことをなし得なくなっている。
ではどうやって私たちはモノを買っているのだろう。
空気でモノを買う時代がやってきた
「新版 戦略PR」の第1章タイトルは「「空気」でモノが売れる時代がやってきた」である。
この本は「戦略PR」という名のコミュニケーション設計について、それが求められている時代背景から具体的な仕事内容までわかりやすく書かれていて、それはいわゆるマーケティングとかのお仕事をしている人間(私も含む)から見て大変魅力的に映る。
その一方で、これを生活者として読み替えるなら「私たちは空気でモノを買っている」ということでもある。
「新版 戦略PR」で空気=カジュアル世論をつくる3つの要素として上げられているのは「おおやけ」「ばったり」「おすみつき」であるが、これは「影響力の武器」における「社会的証明」「好意」「権威」とそれぞれ対応しているように読める。
※厳密に言うと、「ばったり」は必ずしも「好意」と直接的には対応していないが「売り込む意図を持っていない」情報として接することによって、生活者のガードを解くという経路をつくろうとしているように思えた。
空気でモノを買うということは、動くのではなく動かされるということである。
「ブランドは広告でつくれない」でもPRをまさに信頼を得るための、すなわちブランドを構築するための武器として描いている。
※全く本筋でなく申し訳ないが、この本では作者のアル・ライズの「顧客の売上や利益よりも広告自身のクリエイティビティを優先する広告屋」への怨念が炸裂しているのが最高に面白い。もちろん、本筋のブランド構築と維持のための戦略の話も、とても腑に落ちるものであるのだけど。
単純にモノを売るにとどまらず、ブランドつまり信頼を構築する際にも、必要とされるのは第三者のおすみつきであったり、親しい人々からのクチコミだったりするのだ。
人間心理をハックしなければ声を届けられない時代に
ここまで読んで、ひょっとすると戦略PRは卑怯なことだと思われただろうか。
卑怯とは言わないまでも、なにか気持ち悪さを感じられたかもしれない。
本来的に、資本主義における取引というものは個々の自由意志を前提としている。
お互いが納得できる条件で代金とモノを交換するから取引に敗者は存在せず、全ての取引はWin-Winで終わるというのが経済学的なお約束になっている。
だがしかし、戦略PRが働きかける領域は人の「判断のヒューリスティック」であって、理性ではない。
働きかけられた本人は自分の判断を知らないうちにハックされているということにならないだろうか。
ではどうすればよいのだろう。
良いモノをコツコツ作っていれば誰かが気付いてくれるだろうか?
あるいは、マスメディアで広告を大量に打てばみんな買ってくれるだろうか?
そうではない、ということは前回書いた。
端的に言うと「暇だから観て/読んでもらえていた」広告は「暇じゃなくなったので(暇をつぶす手段の方が暇より多くなってしまったので)観て/読んでもらえなくなった」し、広告が多少なりとも持っていた「他の製品/サービスと違う(あなたにとってよりよいモノ/コトについての)情報を提供しますよ!」という価値もわずかなものになってしまった、ということだ。
繰り返しになるが、生活者としての私たちは忙しいし、これからもっと忙しくなるのだ。
理性的な自由意志に基づく、良く吟味された判断自体を行う機会がより減っていく中で、そこに情報を届ける方法自体が消滅しつつあるのだとしたら、どうすればよいのだろう。
もし価値提供者としての私たちが、自身の作るモノやサービスが誰かにとって価値があると信じられるのなら、あらゆる手段を用いてその価値を見いだせる顧客に届けるべきだ。
かくして21世紀のマーケティングはPRになった
最後に取り上げるのはパブリックリレーションズの教科書的な1冊である。
著者の井之上さんはPRを以下のように定義する。
「パブリック・リレーションズ(PR)とは、個人や組織体が最短距離で目的や目標を達成する、『倫理観』に支えられた『双方向性コミュニケーション』と『自己修正』をベースとしたリレーションズ(関係構築)活動である」
教科書的と言うよりは個人のこだわりが詰まった定義であるようにも見えるが、私はこの定義におけるパブリック・リレーションズに希望を見る。
「『倫理観』に支えられた『双方向性コミュニケーション』と『自己修正』をベースとしたリレーションズ(関係構築)活動」
そう、関係を構築するためのコミュニケーションは双方向なのだ。
そして双方向のコミュニケーションとは双方の自己修正を必然的にもたらすものだろう。
なぜ『自己修正』が必要なのか?
それは、関係を長く続けるためだ。
なぜ関係を長く続ける必要があるのか?
前回の記事より、さとなおさんの「明日の広告」の一文を再掲する。
でも、ネット出現後のブランドとは「消費者の中に長く維持される愛」のことを呼ぶと思う。
:【明日の広告】より
それがブランドということだからだ。
そろそろまとめに入ろう。
情報洪水と成熟市場の到来によって、私たちの購買行動とその前段階での情報収集はますます自動化している。
自動化した私たちの判断の中にモノやサービスを届けようとするならば、もはや信用されなくなった広告ではなく、第三者的な権威や、身近な人のクチコミや、あるいは「空気」を作ることから始めなければならない。
これらを作ることができるのはパブリックリレーションズである。
パブリックリレーションズは顧客(及び潜在顧客)のみならず、パブリック(一般社会)との間に構築される。
そしてその関係構築は、関係を長く維持するために行われる。
だから、パブリックリレーションズには「倫理」が必要なのだ。
今回の4冊は四者四様と書いたが、実は共通点がある。
すべての本に「倫理」という言葉が入っているのである。
パブリックリレーションズにおいて、関係を長く保つためには人の心理を一時的にハックするだけでは足りない。
「影響力の武器」には、ハレー・クリシュナ協会という宗教団体の教訓めいたエピソードが書かれている。
彼らは「返報性の法則」を利用して受ける寄付を激増させ、一時的に膨大な経済的利益を獲得することに成功したが、その寄付をしてしまった人々が自衛手段を身に付けるにつれて厳しい財政難にみまわれ、衰退していったという。
クリシュナ協会は、人の心理をハックすることには成功したが、関係性を構築することには失敗してしまったのだ。
だから私たちは、倫理的である必要がある。正直である必要がある。それは顧客に対してだけでなく、パブリックに対してだ。
冒頭に「外見は内面の一番外側」と書いたのはそのことである。
PRにおいて示される私たちの姿は私たちの組織の、製品の内面の一部なのだ。
また社会に対して価値を提供できる実体がなければそれを作らなければならないし、間違いがあるなら自ら修正する必要がある。
そしてその修正を、自分たち自身の価値を、ふさわしい形でパブリックに知らしめ提供していかなければならない。
常にコミュニケーションを取り続け、必要に応じて自己修正を行いながら、私たちは関係性をつくり、維持し続ける。
かくして、21世紀のマーケティングはPRになった。
関係性なくしてモノを買い続けてくれる顧客はもういないのだから。