生と死。共に生きるということ。
子どものころ、もののけ姫はホラー映画だった。
冒頭5分でおどろおどろしいタタリ神が姿を現し、触れるもの全てを破壊し、殺し、呪いをまき散らすシーンは怖くて、指の隙間から覗いていた記憶がある。
本作品は、ジブリにしては残酷な、腕や首がもげ、血飛沫をあげて死ぬシーンが多い。
生と死や自然と人間の対比を描かれている作品だとよく評されるが、もう少し奥深いのではないかと思って私なりの視点を記してみる。
1.すべては緩やかな死の匂いからはじまる
東の果ての静かな古の国。
人々は戦から離れ、穏やかに暮らしていた。
そこに遠路遥々、人間への憎悪に支配されたタタリ神が災いとしてやってくる。
村を襲う神に代償を覚悟して矢を射、その身に呪いを受けた青年アシタカ。物語は、彼が村を去るところから始まる。
「大和との戦にやぶれこの地にひそんでから五百余年。いまや大和の王の力はなく、将軍どもの牙も折れたと聞く。だが我が一族の血もまた衰えたこのときに一族の長となるべき若者が西へ旅立つのは定めかもしれぬ」
彼の旅立ちは村の緩やかな死を意味する。
時は移ろっているのだ。常に和がある穏やかな状態ではいられない。
変化や刺激がなければ少しずつ衰え、やがて腐り、死に至る。
息を潜めたこの村は、穏やかではあるが閉じていた。
アシタカは、その身に死を宿し、そして村に死の匂いを残して旅立っていく。
物語の根幹にはずっと死がある。
もののけ姫は、死から物語がはじまるのだ。
2.こだまはなぜ可愛くて怖いのか
トトロでいうまっくろくろすけ的存在が、もののけ姫ではたくさんのこだまとして登場する。
もののけ姫には実は珍しく子どもが作中に出てこない。
こだまはその代わりなような気がしている。
こだまを恐れる甲六に対して、アシタカは「森が豊かな証拠だ」とついていく。
無垢で、遊び心があって、好奇心が旺盛で、アシタカが人間をおぶる姿を真似して横をすり抜けていくこだまはとても愛らしい。
「道案内をしてくれているのか、迷い込ませる気なのか」
「だんなぁ、こいつらわしらを帰さねえ気なんですよ」
軽快に前を歩くこだまに対して、アシタカと甲六はこんな会話をする。
宮崎駿は、こだまのことを自然の気配のようなものを表現したかったと言っているが、結果としてそれが幼子たちにみえることが不思議だ。
子どもは何をするかわからない。無邪気に蝶の羽をもぎ取る残酷さもあるし、見返りを求めず救いをくれることもある。
先が読めない恐れと、信じれば素直に答えてくれる可愛さがあるのがこだまであり、それはまさに子どもに似ているといえないだろうか。
3.「曇りなき眼」が笑われる理由
タタラ場に足を踏み入れ、鉛の礫の秘密を探るべく、エボシと対話するアシタカ。
「この礫におぼえがあるはず。巨大なイノシシ神の骨をくだき、肉を腐らせタタリ神にした礫です。このアザはそのイノシシにとどめをさしたときにうけたもの。死にいたる呪いです」
「その秘密を調べてなんとする」
「曇りなき眼(まなこ)でものごとを見定め、決める」
「はははははははは。わかった。わたしの秘密を見せよう。来なさい」
曇りなき眼と聞いてエボシは小気味よく笑い飛ばす。
彼女にとって「曇りなき眼」は虚像であり、それを愚直に追い求めているアシタカは滑稽なのだ。
エボシは自分が必要悪であることを自覚している。
山犬やサンたちにとっては排除すべき悪の親玉であることも、自分の手がもののけたちの命を奪っている血塗られた手であることも、それでも護るべきタタラ場があることも。
そんな彼女にとって曇りなき眼を持とうとするアシタカは稀有であり、自分が曇りなき眼を持てると信じていること自体が滑稽なのだろう。
アシタカも神を殺め、人を殺め、その身に呪いを受けているのだから。
風の谷のナウシカでも似たような場面がある。
ナウシカが上人様の姿を借りた虚無に責めたてられるシーンだ。
「お前は虚無なのにどうして上人さまと同じ事を言うの?」
「うるさい子だね。わし達はおなじものだからだよ」
「でも違う。やっぱり違う」
「どうしてだね。自分の足下を見てごらん。死者ばかりじゃないか。
神はこれ以上愚かな人間が大地を汚すのを許さないんだよ」
「でも…やっぱり上人さまと違う。お前はとてもいやなにおいがするもの」
「まだ言うか小娘!他者をとやかく言える身かおのれは!自分の手を見るがいい。その手は何だ。見ろ!」
「血……」
「足元を見ろ。自分の足元を見ろ。死者の中にはお前が殺した者もまじっているんだ。とんでもないカマトトだよお前は。いつまでも無垢な子どもでいようったって底が割れているんだ。王蟲はもう許しちゃくれまい。お前は愚かで薄汚い人間のひとりにすぎないのさ。お前は人間の大人だ。呪われた種族の血まみれの女だ。死者と共にのたうちまわるがいい。わしの尊さがやがて判るだろう」
曇りなき眼でいること、無垢でい続けることはとんでもなく難しい。
正しい道を見極められるはずだということを信じ切れることも。
それでもエボシはアシタカを否定するわけではない。少し面白がっている。
やれるものなら見せてみろと。
エボシは死を引き連れながらも正しい道を辿ろうとするアシタカを、だから生かすのだ。
もしかしたらその人知を超えた力はタタラ場への脅威になるかもしれないのに。
4.タタラ場の女たち
もののけ姫で欠かせない生命を形容する存在がタタラ場の女たちだろう。
豪快で快活、男なんて頼らずとも自分たちで生きていこうとする肝の据わった女たちだ。
彼女たちからはものすごい生命力を感じる。
「(タタラを踏むアシタカ)きびしい仕事だな」
「そりゃそうさ。四日五晩踏み抜くんだ」
「ここの暮らしはつらいか?」
「そりゃあさ...でも下界に比べりゃずっといいよ。お腹いっぱい食べられるし。男がいばらないしさ」
強い。生きてるだけで丸儲け感がある。
帝の使者が来た際もだいぶ豪快にもてなしてくれる。
「さきほどの地侍相手の戦みごとなり。われらは公方さまの使者としてまいった。かしこまって門をひらけい!」
「フン。用があるならそこで言いな!この山はエボシさまがもののけから切りとったんだ。金になるとわかって手のばしやがって!とっとと帰れ!」
「女ども!使者への無礼ゆるさんぞ!」
「無礼だってさ。こっちは生まれたときからずぅーっと無礼だい!
鉄がほしけりゃくれてやるよ!(鉛玉を打ち込む)」
強すぎる。。。男だったらこうはいかない。
死を前にしても女は強い。
「ああ...大屋根が...。もうだめだ…タタラ場が燃えちまったらなにもかもおしまいだ…!」
「生きてりゃ何とかなる!もっと下へ潜りな!」
もののけ姫では異様に女の力強さが表現されている。
エボシ然り、タタラ場の女然り、モロ然り。
考えてみれば、生命はいつだって命懸けで女から生まれ、母によって護り育てられる。腕力では男に負けるかもしれないが、弱さを笑い飛ばし、見栄を取っ払い、とにかく生きるために助け合って強かに生きているのが女だ。
元来、女性のほうが自然や生命に近いのだろう。
アシタカが触れる超自然的な生命力の一つとしてタタラ場の女たちは描かれているのかもしれない。
5.人間を憎み、愛してもいるモロ
エボシを恨み、人間を恨み、復讐の機会を狙っているモロ。
一方で、誰よりも人間を慈しんでいるのもモロだと思う。
「人間どもがあつまっている、彼奴らの火がじきにここにとどくだろう」
「サンをどうする気だ。あの子も道づれにするつもりか?」
「いかにも人間らしい手前勝手な考えだな。サンはわが一族の娘だ。森と生き森が死ぬときはともに滅びる」
「あの子を解き放て!あの子は人間だぞ!」
「だまれ、小僧!おまえにあの娘の不幸が癒せるのか。森を犯した人間がわが牙をのがれるためになげてよこした赤子がサンだ。人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ。哀れで醜い可愛い我が娘だ!おまえにサンが救えるか!」
「わからぬ...だが共に生きることはできる!」
「ふぁっはっはっはっは。どうやって生きるのだ。サンと共に人間と戦うというのか」
「ちがう!!それでは憎しみをふやすだけだ」
「…小僧...もうおまえにできることはなにもない。おまえは時期に痣に喰い殺される身だ。夜明けとともにここを立ち去れ」
モロは、山犬の神だ。
古くから人間にとっては良き友であるもの、それが山犬だ。
サンを捨てればいいものの、モロは我が子として育て、そして最後まで我が子の行く末を憂いている。山犬でもなく人間にもなれない哀れで醜い可愛い娘として。
モロは本当は人間を信じたいのではないかと思う。
だがしかし裏切られてきた。
乙事主とは異なり、森が死にゆく運命(さだめ)であることをモロはわかっており、自分自身も共に死にゆくことを望んでいる。
モロはこの時既に、ナゴの守をタタリ神にした鉛玉を身体の内に抱えている。死はすぐそばに控え、恨み・憎しみは募り、一歩踏み違えばタタリ神になりそうなところを寸でのところで踏みとどまっている。
踏みとどまる理由は、エボシに一矢報いたいという気持ちもあると思うが、恐らく、サンのことを放っておけないという愛の方が強いのではないだろうか。
力尽きそうな最期、モロはサンのために命を張り、アシタカに問いかける。
「やれやれ、あの女のために残しておいた最後の力なのに…。お前たち手出しをするんじゃないよ。タタリなんぞもらうもんじゃない」
「グォオオオオオォォ!(乙事主の叫び声)」
「言葉までなくしたか...(乙事主にかみつく)
わたしの娘をかえせ!……アシタカ!おまえにサンが救えるか!?」
最期までタタリ神にはならなかったモロ。
人間・サンへの愛。そして、サンをこの先守ってくれるであろう人間・アシタカへの信頼こそ、彼女が最後まで失わなかったものであり、タタリへと堕ちない理由なのだと思う。
6.死に喰われるということ
「人はいずれ死ぬ。遅いか早いかだ。肝心なことは死に喰われんことだ」
ジコ坊は、アシタカとの出会いで意味深な言葉を残す。
それは、のちに猪たちにモロが放つ言葉でより深まる気がしている。
「彼奴は死を恐れたのだ。今のわたしのように。わたしの身体にも人間の毒つぶてが入っている。ナゴの守は逃げ、わたしは逃げずに自分の死を見つめている」
乙事主も、とうとう最後はタタリ神になってしまった。
死んだはずの戦士たちが甦ったと思い込んだことが引き金となり、死は恐れぬと言いつつも、まだ死にたくないと願い、最早力尽きる寸前であるにも拘らず、自分の死や敗北を見つめる前に死への恐怖・否定と憎しみに支配されてしまった。
盲目的になり、そして言葉、すなわち思考する能力すら失うのである。
死に喰われるということ、それは死をあるものとして受け入れるのではなく、死を恐れ逃れようとすることである。
それは衰弱した状態のときに起こりやすく、恐怖と憎しみに支配され、死に背を向けた結果、生の光も届かなくなるということなのではないかと思う。
アシタカの故郷のヒィ様も言う。
「死をただ待つか、自ら赴くかは決められる」
ただ、背を向ける。は、ないのだ。
サンも危なかった。憎しみの深い乙事主と共に過ごし、その渦に飲み込まれ、タタリ神になんかなりたくない!と叫びつつも自分もタタリ神になるところだった。
だが、サンにはアシタカの彼女を呼ぶ声が聞こえた。
応答することで、彼女は死にたくないではなく、生きたいと願い、生を喰らいなおしたのだ。
7.「シシ神の森」は二度と戻らない
シシ神の首を返し、突風が吹き荒れ、タタラ場も死んだ森もすべてが吹き飛ばされたのち、そこにはまた青々と草木が茂っていた。
目覚めたアシタカにサンは悲しそうにいう。
「甦ってもここはもうシシ神の森じゃない。シシ神様は死んでしまった」
シシ神の森は確かにもうないのだ。
もう二度と同じような森にはならない。
神が死んだのか、生きているのか、わからない。
ただ、シシ神はシシ神としての役目を終えたのだと私は思う。
神を感じるが、神を信じない世の中になった。
大いなるものは生命そのものに宿り、大いなるものによって翻弄されることもあり、命を奪われることも与えられることもある。
ただ、そこに「無条件に畏怖する」ということがもうなくなってきた時代の境目だったのではないか。
モロはそれを運命として感じていたようだ。
恐らく、シシ神も自らが本来あった意味を失い、滅びゆくことをわかっていたのかもしれない。
シシ神の森は戻らないが、森は戻る。
森は何度でも甦り、次は人の手によって甦ることもあるかもしれない。
人間がいることで森がさらに栄える時代に向かうために、シシ神が森を司る時代は終わったのではないかと思う。
8.呪いの痕は消えない。消してはいけない
「シシ神は、わたしに生きろと言ってくれた」
そういって見つめるアシタカの手にはうっすらと呪いの痣が残っていた。
呪いは消えたと思うだろう。
呪いは消えたかもしれない。だが、痣が残るということが私にはとても意味深く思える。
完全には消えず、しかし薄くはなっており、見るたびにふと思い出す。
アシタカがタタリ神を射抜いたのには然るべき理由があった。
生命を徐々に蝕まれるというのはあまりにも酷で惨い罰でもあったかもしれない。だがそれほどに森の肥大化した憎しみは大きく、強く、哀しいものだったのだ。
アシタカは、理由こそあれ、生命を奪った。
神殺しの禁忌を犯したという事実は消えないのである。
罪深さとそれを乗り越えたことの両面を忘れないために、わざと痣は残してあるのではないだろうか。その過去も背負って生きていくという意味も込めて。
痛みがある記憶を消すことは過去の否定である。
むしろ、それこそ消してはいけないものなのかもしれない。
9.共に生きるということ
「アシタカは好きだ。だが人間を許すことはできない」
「それでいい。サンは森で、私はタタラ場で生きよう。
共に生きよう。会いに行くよ、ヤックルに乗って」
もののけ姫の世界で描かれている「共に生きる」という台詞は、
分かり合おうとすること、や、共生・共栄する、などといったそんな綺麗なものではないと私は思う。
ましてや互いに許しあうことでもない。
絶対に分かり合えないからこそ、別の場所で、程よい距離感をもって、互いの生き方があるということを認めるということなのではないだろうか。
だから会いたいときや必要な時は、会いに行くのだ。ヤックルに乗って。
無理に共にいようとしなくていい。
むしろ、近づこうとしなくていい。
価値観も生き方も守りたいものも違うのだから。
大切なことは、自分の居場所を守りつつ、相手にも居場所が必要なことを認めること。それが恐らく、真に共に生きるということなのではないだろうか。
多様性や包摂性が叫ばれる中、話せばきっと分かり合えるはずだという期待は肥大化し、分かり合わなければいけないという暗黙の社会善が既に一種の暴力になってきているように感じる。
分かり合う。ということは、元来とても難しいのだ。
分かり合えなくてもいい。
でも、分かり合えなくても排除する必要はない。
距離を置けば、共に生きられる。
もののけ姫における「共に生きる」は現代社会にそんな示唆を与えてくれているのではないだろうか。
さいごに
シシ神が歩くとき、まず地面が枯れてから生命が芽吹き、死んでいく。
タタラ場も死んだ森もすべてが吹き飛ばされてから、新たな森が誕生する。
多くのものを失って、はじめて新たな命が芽吹く。
生は恐らく、死からしか生まれないのだ。