大切なものはいつも内側にある
2001年に公開されたジブリ作品、「千と千尋の神隠し」は歴代作品興行収入ぶっちぎり1位(2020年の今も)で多くの人に支持される作品だ。
何度見ても、問いかけられ、気づきと勇気と戒めをくれる。
様々な解釈ができること、見る人・タイミングによってそれは変わること、読み解きの正解がない非暴力さが映画がもたらしてくれる価値だと思うが、だからこそ、今の自分はこの作品に何を投影するのかを記録していきたいと思う。
1.親である前に、男女であり人間である親
「千尋、あまりくっつかないで。歩きにくいわ」
「千尋、早く来なさい」
映画の冒頭、不思議の世界に迷い込んだあたりで母は千尋にそう声をかける。千尋に一瞥もくれずに。
「まって~。ねぇまってよ~」
と言いながら千尋は両親の後を追いかける。
そこには、他の家族の意見を顧みず自分の興味のまま突き進む父親の姿と、引っ越し業者きちゃうと文句言いながらもそんな父親についていく母親の姿がある。
結構多くの人が思うのではないだろうか。
「親、子どもに冷たくない?」
この両親はとても現代らしいカップルであり親を表しているように思う。
子どもが嫌いなわけではないが、自分の人生は楽しみたい。
子どもが嫌いなわけではないが、気楽に同じように楽しめる人といたい。
子どものために、自分が何かを我慢しなきゃいけないのは避けたい。
父と母は川を渡るときに助け合うが、子どものことは放っておく。
屋台の食べ物を2人分取っては、千尋が止めるのも聞かずに「こっち来て食べな。骨まで柔らかいよ」といいながらむしゃぶりつく。
「私は私のしたいことをするから、あんたはあんたで自由にしなさい」
というメッセージを受け取る。
「あなたは私たちのペースについてこられないでしょ」とも。
こういう育てられ方じゃなかった私からしてみたら気持ち悪さがあるが、見方を変えれば自立した関係性にも見えなくもない。でもやはり自分勝手すぎない?親。と思う。サツキとメイのお父さんのほうがいいな。
私が違和感を感じるのは、千尋を一人前に扱っているからこういう態度、なのではなく、自分のしたいことをするためにこういう態度、に感じる部分だと思うのだ。
親である前に、父親に対しての女であることを感じさせるお母さん。
親である前に、自由気ままな男であることを感じさせるお父さん。
千尋は両親の愛情に飢えている。だから甘えん坊だし、駄々っ子をしている。そんな千尋だからこそこの世界での試練ははじまるのだと思う。
2.名前と言霊と少しの魔法
千尋の迷い込んだ世界には魔法がある。
単純に空を飛べたり海を走れたり、便利だったりする魔法ではない。
この世界では「本物の名前を呼ぶこと」が最大の魔法なのではないか。
※果てしない物語や、星の王子様、アルケミストでも「本当の名前」は大切にされている。名前は昔から国を超えて一番古い魔法なのかもしれない。
「ちひろ・・・ちひろって私の名だわ!」
「湯婆婆は相手の名前を奪って支配するんだ。いつもは千でいて、本当の名前はしっかり隠しておくんだよ」
「私、もう忘れかけてた。千になりかけてたもん」
「名前を忘れると帰り路が分からなくなるんだ。私はどうしても思い出せない」
「ハクの本当の名前?」
「でも不思議だね、千尋のことは覚えていた」
名前を忘れると帰り路が分からなくなる。
なんと深い言葉だろうか。
名前とはアイデンティティであり、歴史であり、記憶であり、体験である。
荻野千尋は、荻野姓を得るまでに自分の親・祖父母・そのまた祖父母…と荻野になるまでの歴史があり、千尋という名に込められた願いがあり、千尋として生きてきた記憶があり、千尋自身が感じてきた体験がある。
ハクはニギハヤミ・コハクヌシであり、琥珀川の主だった。場所の記憶そのものが名前である。
ルーツを見失うということ、自分はどこからきたのかを時間・空間軸を超えて失うということ、すなわち名前を失うということである。
名前を奪われ、他者に支配されるということは、これまでの繋がりと分断されレッテルを張られるということでもある。
湯婆婆は現代社会にもたくさんいる。自ら湯婆婆と契約する人もたくさんいる。記号として人を扱う人、すぐにレッテルを張る人、自己紹介を企業名だけで勝負する人。。。
本当の名前は、自分の記憶そのものであり、それは生まれる前からあり、生きる限り磨かれ続け、唯一無二性を増していくのではないだろうか。
そんな貴重なもの、奪われるわけにはいかない。
だから自分の名前を奪いそうな人や環境からは、ちゃんと隠しておかないといけないのだ。
千尋の世界の一番強力な魔法こそ、その「本当の名前」であり、魔法をかけるための条件は「大切なものは全て自分の内側(魂の記憶)にある」ということを知っていることなのではないかと思う。
それは挿入歌のなかでも歌われている。
はじまりの朝の 静かな窓
ゼロになるからだ 充(み)たされてゆけ
海の彼方(かなた)には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから
外に価値を求め、目に見えるものに翻弄されるのではなく、輝くものはいつもわたしのなかにある。
千尋のこの物語を通じての気づきだ。
だから最後、千尋は両親を見つけられたのだと思う。
「この豚の中に両親がいる」のではなく、
「両親が自分にはいる、そしてそれは豚ではない」
ということを千尋が知っているからに他ならないのではないだろうか。
3.どんなときでもお腹はすく
「お食べ。ご飯を食べてなかったろう」
「食べたくない」
「千尋の元気が出るようにまじないをかけてつくったんだ。お食べ」
・・・
「うわあああああああ~ん(千尋、大号泣)」
顔の半分ほどもある大きなおにぎりをほおばりながら、千尋は大泣きする。
しまいには、両手におにぎりをもって両方に齧り付きながら大泣きする。
なんで泣いたんだろう。
ほっとした気持ち、おにぎり美味しい、ひとりぼっちになってしまった寂しさ、夢じゃなかった、いろんなことが起きすぎてわからなかったけど一気に「ああ現実なんだ」と思わされる感じ、こんな状態でもおなかはすくし、ご飯は美味しいし、わたしここで頑張らなくちゃという覚悟。からか。
思い返してみると、千尋はとても痩せっぽっちだ。
ハクのおにぎりもはじめはいらないというし、両親に屋台のごはんを薦められたときもいらないという。きれいな学校じゃない?と母親に言われても前のほうがいいもん。という。
千尋は欲しいものを欲しいとちゃんと言えない子なのだろう。
でも欲しいものは欲しいし、我慢していると飢えてしまう。
千尋はお腹もすいていたし、きっと愛情にも飢えていた。
あたりまえでない世界で、あたりまえにお腹がすくという現実と、
ハクのまじない=愛がかかったおにぎりは、いざ与えられてみたらとても他愛もないもので、でも温かくて美味しくて嬉しくて泣けてしまったのではないだろうか。
普通に、ご飯を食べるという行為そのものが心をふっと緩ませるというのもあると思う。それはもう言葉では表現できない。
おにぎりは偉大なのだ。
4.「カオナシ」という存在
この作品の中でひときわ大きな存在感を示しているのがカオナシだと思う。
カオナシは自分だなと感じる時もあるし、ああこの人カオナシだなと思う時もある。
誰かの力を使ってでしか自分を表現できず、
誰かの欲求を満たすために存在し、
でも自分のありのままを肯定してもらいたい。
カオナシが千尋に固執したのは、何をあげたわけでも、何をしたわけでもないのに受け入れて親切にしてもらえたからなのだろうと思うのだ。
価値を出さないと評価されない、見てもらえない、大事にしてもらえない。
そういう恐怖の集合体がカオナシという存在なのだと思う。
「兄役殿、俺は腹が減った。腹ペコだ!」
「そ・・・その声は」
「前金だ、受け取れ。わしは客だぞ!風呂にも入るぞ!みんなを起こせえ!」
最初は飢えていて、ちやほやされることを望んだ。
相手にとって価値のあるもの(砂金)を与えれば、自分は認められるし大事にしてもらえる。
でも千尋はそうはいかなかった。
「これ、食うか?うまいぞお。
金を出そうか?千の他には出してやらないことにしたんだ。
こっちへおいで。千は何がほしいんだい?言ってごらん」
「あなたはどこから来たの?私すぐ行かなきゃならないとこがあるの。
あなたは来たところへ帰った方がいいよ。私がほしいものは、あなたには絶対出せない」
「グゥ……」
「おうちはどこなの?お父さんやお母さん、いるんでしょ?」
「イヤダ……イヤダ……サビシイ……サビシィ……」
「おうちがわからないの?」
「千欲しい……千欲しい……
……欲しがれ。」
何も欲しがらない人に対して、どう貢献したらいいのかわからない。
でも何も欲しがらない人(千)が欲しい。
誰かの欲望を満たすだけの活動をしていたら、自分の本当の名前を忘れ去ってしまい、帰り道を完全に見失った成れの果てがきっとカオナシなのだろう。
千尋に団子を食わされ、欲望を吐き出し、自分がゼロ・すでに何者でもないということに直面した時、素直になり、千尋についてきて、そして銭婆のところにいく。
「あの人、湯屋にいるからいけないの」
千尋はそう言ってカオナシをおびき出す。
湯屋の世界は欲望の世界。そこにいたら自分も染まるし、その欲望の渦に組み込まれてしまう。だから離れなよ。ということを10歳の少女は直感的に感じているのかもしれない。
銭婆のところでもカオナシはおろおろしている。
ちょっと手伝って、と言われ、だんだん生き生きしてくる。
あんたはここにいておくれ、と言われて「あ、あ」といって大きく頷く。
カオナシにとって誰かの役に立つということは恐らく本質なのだ。
でも、誰かの役に立つしか自分の取柄はない、というわけではない。
ということが銭婆のところで感じられた。
カオナシはきっと顔の見える誰かのために何かができている自分でいることこそがWeillbeingなのだろうと思う。
カオナシの存在やあり方は、現代社会に生きる人たちにとって救いになっているのではないだろうか。
5.銭婆はどう怖ぇ魔女なのか
ハクが盗んだ魔女の契約印を銭婆を返しに行こうとする千尋に対し、釜爺は
「銭婆のところか?あの魔女は怖えぞぉ。」
という。
だがしかし、実際の銭婆は、千尋たちをよく来たねと優しく迎え入れるし、ハクを殺そうとした理由もわからなくない。千尋のおかげで湯屋を見学できたと笑うチャーミングさもある。
むしろ、辛くてきつーい仕事を死ぬまでやらせてやろうかと千尋に爪を立て、坊の居場所を言え!と髪を逆立てて火を噴く湯婆婆の方がよっぽど怖い。
だが、銭婆のことを釜爺は怖いと形容する。それはなぜか。
これは仮説だが、銭婆には「見透かされそう」で怖いのではないだろうか。
小細工は通用しない。本物であることだけが求められる。
湯婆婆はその点、彼女にとって都合のいい存在になればいいだけなのである意味楽なのかもしれない。
湯屋の人々はみな何かから逃げていたり、見失っていたり、諦めていたり、強烈な渇きを癒しにきていたり、虎視眈々と機会をうかがうために息をひそめている人たちばかりだ。普通の人たちだ。
釜爺はきっと、本当は仕事もススワタリたちも放り投げて旅に出たいのかもしれない。
昔の切符をずっと大事に隠し持っていた。
最近は電車は行きっぱなしだという。行ったら帰ってこられなくなるのが怖いのかもしれない。
だからきっと、銭婆は千尋にとっては優しいおばあちゃんだけれど、釜爺にとっては怖いのではないだろうか。
6.頭では思い出せないけれど、身体は覚えている
「おまえを助けてあげたいけど、あたしにはどうすることも出来ないよ。
この世界の決まりだからね。両親のことも、ボーイフレンドの龍のことも、自分でやるしかない」
「でも、あの、ヒントかなにかもらえませんか?
ハクと私、ずっと前に会ったことがあるみたいなんです」
「じゃ話は早いよ。一度あったことは忘れないものさ。
思い出せないだけで」
そう言われた帰り道、千尋はハクの背中に乗っていてある感覚を思い出す。
水の中に引き込まれるような、落ちていくような、中にいるような感覚。
そしてハクの名前を思い出すのだ。
小さいときのことで頭の記憶にはないけれど、ハクの背中に乗って飛ぶことでデジャブがあった。千尋の身体の記憶だ。無意識にあった記憶。
人は生まれてからずっと、本当は毎日の1分1秒を記憶し続けている。
26歳の私だって、200,000時間以上の記憶がある。
言語として覚えていないだけで。
だから、初めてなのに懐かしいと思うものがあったり、言葉で説明できないけれど好きなものがあるのだと思う。ずっと蓄積されてきた無意識があるから。
「懐かしい感覚」は、ちゃんと大事にしたほうがいい。
そこに言葉には落ちていないけれど、忘れてはいけない大切なものがあるはずだから。
7.釜爺の愛
最後に言及しておきたいのは、釜爺の愛について。
このおじいちゃんは、本作品の中で一番情が深いのではないかと思う。
「ここで働かせてください!」
という千尋を「n…nん???」と二度見して放置したり、
「人間がいんじゃん!」と叫ぶリンに「a わしの孫じゃぁ」と答えたり、
泣きつかれた眠る千尋に座布団をそっとかけたり、
ハクを心配する千尋の様子に「愛じゃのぅ。愛じゃ」と呟いたり。
存在そのものが超自然体なのが釜爺だと思う。
来るものは受け入れ、去る者は追わない。
釜爺の長い長い人生に比べたら、他はみんな可愛くみえてしまうんだろう。
多分釜爺に会えたとしたら、
ぉお よしよし、お前は大丈夫だぁ
と言われている感じになる気がする。
私が26歳時点で一番好きなキャラは釜爺だ。一番会いたい。
さいごに
いろいろ好き勝手に解釈してきたが、千と千尋の神隠しという作品は
「自分の内側に自分を見つけに行く」話だと思う。
だから現代社会に生きる私に、私たちに響くのではないだろうか。
・名前を奪われていないだろうか?
・最後に心が緩んで泣けてしまったのはいつだろうか?
・あたりまえが染みたのはいつだろうか?
・なんとなくなつかしさを覚える風景や人、事柄はなんだろうか?
・自分の中のカオナシはどんな仮面をかぶっているのか?
・何が自分を胸の奥で呼んでいるだろうか?
・何に自分は呼ばれているだろうか?
・自分の名前はなんだろうか?
千と千尋を見た後、こんな問いで語り合ってみたい。
自分や語り合う仲間が自分の名前をもう一度思い出せることを願って。
おわり。
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