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自分の人生のハンドルを握らせていいのはいつだって自分だけ

大きな決断する時。
これで良かったのかと不安になって心が揺さぶられる時。
誰かに対する不満が湧き上がってきた時。

そんな時、私の心を軽くしてくれて、自然と自分を信頼することができたり、うんこれで大丈夫、と思えるようになる魔法の言葉が "私が決めた" です。

例えば、こんな感情が湧き上がったことありませんか?
・こんなにやってあげたのに!
・あなたがこうしなさいと言ったからやったのに

これは誰かに何かを期待したり、誰かの言葉に対して自分の意思を持たなかったとき


私はよくありました(笑)こういえば責任転嫁ができるし、自分の言動に責任を持たなくて良くなるので、一時的には気が楽になるような気がするんですよね。


でも、その対価はじわじわとやってくる。この状況って、全くもって自分の人生をハンドルを自分で握れていない状態なんですよね。


だから、誰かの一言で、誰かの行動ひとつで、いとも簡単にハンドルを取られてしまって、感情の蛇行運転が始まってしまう。


例えば、仕事においてもパートナーシップにおいても、なんで私はこんなにやっているのに、あの人は全然やってくれないんだろう、と感じたとき。それをやると決めたのは自分の自由意志であって、やらないという選択肢もあったはず


でも私の場合仕事の面でいうと、仕事ができる人だと思われたいから、褒められたいから、認められたいから、とただの自分の欲求でしかなかったにも関わらず、そこから「これくらいやるのは当たり前でしょ」っていう思考を他人にも押しつけて、そのフィルターを通して相手をジャッジしていたに過ぎないんですよね。


もし私が心からこの業務をやりたい、誰かを助けたいとただ純粋に思っていたなら、そこに「どうして私はやっているのに、、」という感情は湧いてこないはずなんですよね。


だから、そんな感情が湧いてきて、なんだかモヤモヤするなぁなんて時はふと客観的にそんな自分に気づいて

モヤモヤするけど(モヤモヤは否定しない。ちゃんと自分の感情として受け入れる)、これをやるって決めたのは私だったなぁ、って自分の意思と決断に責任を持って、あるがままを受け入れてみてください


これは相手を許すためにやるわけではありません。自分の自由意志で起こしたその行動をただ自分で認めてあげるだけの作業です。そこに良いも悪いもないし、他人の承認も必要としません。


また、少し違うパターンでいうと、自分が何かを決断をした時、それを否定したり止めてくる人に出会ったことはありませんか?


もちろん愛情の一つとして、心配して止めてくれているということもあるのですが、たとえそこで自分がその決断をしてもしなくても、相手は私の人生に責任を持ってくれるわけではないんですよね。


そんな時、特に家族や近しい人から、そんなことやめておいた方がいいよと言われたり、そんなことしたらこうなるよ、と不安を煽られたとします。


私が言いたいのは、その止めてくれる人たちが言ってくれていることが正しいとか間違っているとか、そんなことではないです。


その決断は"私はどうしたいの?"からくる自分の意思なのかどうか


もちろん聞く耳を持つことはとても大切で、誰かの助言で救われることもあります。私も信頼する人には相談をします。


でも最終的にその決断に責任を持つのは自分自身であるということ。そうすれば、その結果が自分の思うようにいかなかったとしても、次はこうしようと学びを得ることができるし、その事実と自己決定ができた自分をちゃんと受け入れてあげることができれば、そこに後悔はないと私は感じます。


私自身ここ最近周りの反対を押しきって、"私はこうしたい"を信じて決断をしたことがあるのですが、少なくともちゃんと自分の意思を伝えられた自分、自己決定ができた自分に対して誇りに思うし、自己信頼感が上がる感覚がわかりました。


もともと本当に自己決定が苦手で、その奥では失敗をしたときに自分で責任を持つのが怖いという感情があったのですが、今回はなんだかとても清々しいです。


もしそこで他人の判断基準に任していたとしたら、、あの人がこう言ったからやったのに!自分で決めてやっておけば良かった!が始まっちゃうんですよね。


そして他人軸になると、そのモヤモヤは消化することができずに、結局いつまでも自分を苦しめてしまうのです。


自分の意思と決断に責任を持つ。そうすれば自分の感情や起きている出来事への反応の仕方は自分で選べます。ほかの誰かの言動で左右されることはありません。

いつだって自分の人生のハンドルを握っているのは自分自身であるということを忘れないでいてくださいね。


Love,
ARIKA





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