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どうしてわたしの学祭の感想はメディウム観に依拠しがちなんだ

 大学を卒業してから二年経ち、再訪すればどうしても先輩面してしまう状況になってきた。ただ先輩面が叩き割れる余地として特定(サークル)の場(展示)でのみ文章(感想)を残すようにしてきた。

「できるだけ全ての展示作に書きたいとは思っているが書けていないからもう叩き割れている」

 感想文化はクリエイティブ時代に残された批評の子孫だ。いいねやリツイートという定量化された指標が用意されている中で、(文字)数では計らない(短くても深く残る感想はありうる)唯一の機会だろう。そういった同時代的な背景はありつつも私的には、高校演劇の講評・感想文化の体験がこれを支えていると遺しておきたい。

 高校演劇には良くも悪くも高校演劇ウォッチャーの大人が居たり、審査員の演出家や脚本家が高校生の上演を観て、コメントをくれる機会がある。また生徒同士でポストイットに感想を貼る地区もあるらしい。また、生徒・審査員・ウォッチャーは上演後Twitterに居るというのが常だった。
 審査員のTwitterをジロジロ見るのは審査される生徒の必然であるし、審査員も審査時の悩みを吐露する事も少なくない。少なくとも東京の小演劇界が集客など様々な面でTwitterというプラットフォームに依存しており、演劇部の高校生もそこに集まるという状況がそこにあった。
 大学一年の頃は先輩の学生劇団の公演のつまらなさについてTwitterで書いたりしていた人間だったが徒労感もあり、今はまとまった講評や批評を書くことの難しさとアカデミックな文章への憧れと自己嫌悪のバランスの上で批評やレポートならば許されない内容と、硬すぎて一端置いておかれる文章でもない辺り(文の結び方に毎度悩むのはそのせいだ)を感想に書くことを目指している。

 さて、現在の話をしなければならない。“読書感想文”と例えられた事もある長めの感想は、「結局そんなことをする奴が珍しいうちは」ちょっとの根気をもって書くと思う。本当は同世代で同士で文章を送りあって欲しい。どんなでもいい、友達の卒業文集が面白かった事は誰にだってあるはずだ。

「どんなでもいいなら長い文章じゃなくてもいいし、
感想は他にも来ていますが。」

 感想ノートは長くないメッセージ(感想よりもダイレクトな)やイラストが署名代わりになされていたりもする。ただどうだろう、もう少し、書くのに苦労しようとしてみてもいいのではないだろうか。

良った授業には良いレポートを送りたい気持ち

これに近い。
ただ…良い文章を読んだことが無いと、自分でも貰ってみたいような文章も分からないかもしれない。
(なんだか批評が嫌われ、人気が無いのはこのせいもある。)
 批評は作品の新たな面を発信するアンテナだ。映画批評・音楽批評・美術批評・書評・劇評・・批評には種類と歴史があり、それぞれの批評文では大抵立場を決めて書かれる。批評については批判と混同して嫌悪している場合もみるが「この作品ここがダメだが、そこがたまらん」と言えたりするのも批評だと思う。
 基本的にはその作品と社会に対する労力(だから疲れていると粘り強く書けない)を使ったアクションで、(専門の仕事ではそうはいかないだろうが)本当に書く価値のないダメさなら書かなくてもいいはずである。この批評観を感想にそのまま私は当てはめている。まぁつまり、どんな作品でも書く事にもならないダメさはそうそう見出されないし、何かはあるから書いている。


なにか

とはなにか。
メディウム(支持体)のこと。まだ形の無い作品を展示した人が居ないから免れているが、その作品の表面や物質性に注目するとある程度は書けてしまう。かっこよかった・かわいかった・構図だなんだは全て表象(ひょうしょう)の話で、絵の上手い下手なんかも表象だ。
 メディウムは絵具と混ぜて画面に凹凸を作る画材の名前でもあるが、作品を構成する素材のことも指す。“美術”と“現代美術”でのニュアンスの差とも思っているが、紙やペン以上にデジタルな描画ツールが浸透している今、メディウムはソフトウェア(イラレ、クリスタ、アイビス…)にまで拡張されていると考えた方が良いだろう。
 しかしこの考え方は非一般的だ。メディウムに注目して鑑賞しようとする人は一握りで、その上、描画ソフトも芸術家のツールではなくイラストレーターや漫画家のツールと思われているフシがある。

立ち昇る芸術の狼煙に導かれ、いつしかここにたどり着いた。

(ちょっと恥ずかしいと思ってしまったが2024年学祭のコピーだ。)ハイカルチャー・ローカルチャー、アート・デザイン、演劇・ダンス、…学生それぞれ本当は違う位置に居るはずであるが、芸術の狼煙を見たということにはなっている。(または狼煙を挙げている側か)
 学生“それぞれを違う位置に居る”と述べる訳は、大学で教えるのが大きくはメディウムについてだからだ。ダンスや演技をする身体や舞台美術の木材、油彩や陶器、日本画、テキスタイル、、それを扱うための技術習得が初学者には必要な事として用意されている。しかしどの芸術系大学でも結局は技術取得の機会と空間が用意され「後はどうぞ」と、自らの持っている力から作ることでしか本当に大切な何かが学べないようになっている。
とも言われる。
 大切な何かが本当に存在するか、何のことかは書けない。多分、誰も教えられないのだろう。だがしかし、伝えたり教えたりでない技術習得以外の大切な何かのヒントは、批評が持っているのではないだろうか。

 演劇をはじめとしていくつかのメディウムにまたがって制作をしてきた身として、技術習得よりも先立つ意志やビジョンが、「やったことないけどやってみるんだい!」を実現した時に、技術習得(単純には上手い下手)ではない面=メディウムに目を向けることで大切な何かが見えてくる。と思う
 人生は多数の評価軸を持った方がよいと言う。上手いけどつまらない作品はあるし、ダメだけど好きでしょうがない作品もある。

 上手い下手よりも複雑な評価軸は優しいようで、果てが無い(良し悪し不明の)世界(芸術)へあらゆるクリエイターを引きずり込むだろう。現に「このアプリ(=メディウム)を使ったらあなたもクリエイターです。」という広告やサービスが、消費者を脱出してクリエイターになりたい大衆を刺激しようとしている。こういった視覚優位社会に到来したクリエイティブ時代を生きる為に、最後は、技術習得やメディウムを貫通するような意志やビジョンを含めた、本当に大切な何かを磨く必要のみが残されている。

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