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岸田國士とルナアルの「にんじん」について

岸田國士をご存知だろうか?

劇作家、演出家。小説家、評論家、翻訳家であり、膨大な執筆作品を残している作家です。(童話作家の岸田衿子、女優の岸田今日子の父です)

私は一昨日、その岸田國士の作品を題材とした舞台に出演しました。

緊急事態宣言中につき、1日公演。
身内以外は来場なし。ほぼ配信という形でした。

題材は「にんじん」

19世紀にフランスの文学者ジュール・ルナアルによって書かれた児童文学です。

「にんじんとルナアルについて」というエッセイが私の題材でしたので、岸田國士の翻訳した小説「にんじん」を青空文庫で読んだのですが…

なかなか読み進めることができない…。

辛くて、胸が苦しくなるからです。

数ページ読んでは

『もう無理』と、本を閉じる。

作品をどうしても読む必要があったという強制的状況がなければ、最後まで読み進めることはできなかったかもしれません。

胸が締めつけられては本を閉じる。

それを毎日続けて、半分くらい読み進めた頃から、スラスラと読めるようになったのでした。

悲惨なものにも慣れる動物が人間か?

でも、それだけではない気がする。

というか、今はその理由がわかった気がします。

ルナアルの文体がそうさせたのだ、と。

ジュール・ルナアルの作品のうちで最もひろく読まれ、世人に親しまれているのは、この「にんじん」である。原名はpoil de carotte 直訳すると「にんじん毛」、すなわち、にんじんのように赤ちゃけた髪の毛という意味になる。
この種の髪の色は、ブランドや栗色などとちがい、生々しくどぎつい感じのために、あまりみばえがしないばかりでなく、一般にこの髪の色をした人間は、皮膚の艶もわるく、ソバカスが多くて、その上、性質まで人好きのしないところがあるように思われているのである。
自分の子供にこんな渾名をつける母親、そして、その渾名が平気で通用している家族というものを想像すると、それだけでもう暗澹たる気持ちに誘われるが、いったい、ルナアルは、どういうつもりでこの作品を書いたのだろう?

ルナアルの日記によると、この「にんじん」の内容がだいたい事実に基づいたものであることがわかる。

不幸な運命と、悲劇的境遇。

私も人の親ですが、我が子にこんな接し方をする母親というものが到底理解できません。

ルナアルは、たしかに、この物語において自己告白もしていなければ、自己弁護もしていない。事件の軽妙な配列と、描写の客観性とによって、あくまでも感傷の跡を消し去っている。 
母と子とがほとんど本能的に憎み合うという世にも不幸な運命、聞くだに慄然としないわけにいかぬ悲劇的境遇が、この作品において、一種素朴な家族風景となり、時には清澄な牧歌の趣を呈するわけは、作者ルナアルの感傷がまったく影をとどめず、むしろその高度なヒューマニズムが、愛憎の心理の機微を公平に捉え、人生の風波に雄々しく耐えて、いっさいをほろ苦い微笑でつつもうとしているからだと思う。

途中から抵抗なく読み進められるようになったのは、そういった理由が大きいと思われます。

ここで最も注目すべきことは、少年「にんじん」の叡智が、いわゆる凡庸な大人の世界をいかに眺め、その暴圧と無理解とに処して、いかに自ら護ることを学んだかという、おそらく万人の経験に訴え得る興味深い分析と観察とが、身につまされるように記録されていることであろう。
強いて言うならば、この物語は児童教育の貴重な参考書であり、その逆の意味では年少の読者にとってたぐい稀な少年文学の一つの見本である。

とあります。

が、この「にんじん」という小説を安易に「児童文学」で括ってしまうことには少し疑問があるのです。

こども時代の経験や情感、感性は、成長するにつれてどんな変化があるのか(または変化しないのか)?

“こども”はいつから“おとな”になるのか?

等々。

19世紀に作家ルナアルが、半ば自叙伝的に描いたこの作品が21世紀の私達の想像力を痛いくらいに刺激します。

こどもたちは、現代社会でも危険にさらされています。

ルナアルが「にんじん」の中で描いた数々の危険。

むき出しの“こども”として「にんじん」はどんなふうにその危険の中を生き延びていくのか。

岸田國士がこの作品に魅かれて翻訳した根っこを探すべく、演出家の方がこの題材を取り上げてくださいました。

岸田の思いを代弁する朗読になったのかどうか…。

本・人・舞台。

一期一会に心から感謝します(合掌)

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