「声を上げる」ということ
次女の学校から電話があった。
登校時に盗撮に遭ったかもしれないと担任の先生に話したとのことでした。
実は、以前も別の人物から痴漢被害に遭っていました。
詳細は避けます。
痴漢事件の概要をいえば、娘は駅員さんに事情を話し、犯人は逮捕されました。
が、娘の供述以外に証拠が無い状況。
勿論、犯人はしらを切る。
事情聴取だけで、もう嫌になるほど時間と労力を費やされました。
そして、裁判を起こすでもなければ、ある一定期間の拘留でお咎め無しで釈放されるといいます。
検察庁にも赴き、再三に渡って事情聴取を受け、膨大な時間を費やしました。
精神的苦痛も警察の聴取からずっと続いている。
あと数日で釈放という時、
通常は「声を上げて、裁判をする」ことはまず無いということで、当初は、検事さん自ら、裁判を見送るよう手配されたくらいでした。
今になってみれば、それもわかります。
その女性検事さんは、娘の負担の大きさを心配してくれたのでしょう。
でも、娘は数年にわたって被害に遭ってきました。
そんな卑劣な男が何のお咎めも無しで釈放され、また同じ電車に乗るのか?
平然と生きていくのか?
おかしくないか?
結論をいえば、私たちは裁判を起こしました。
そして勝訴しました。
娘と私の供述が嘘やでっち上げでないということを裁判所が認めてくれたのでした。
だが、どんなに大変だったかおわかりだろうか?
いや、実際に裁判をした人間にしかそれはわからないと思います。
再三再四、警察庁や検察庁に足を運び、話をしました。
膨大な時間と労力。
そして、精神的負担。
娘の負担の重さは、付き添っただけの私には到底わかりません。
娘はよく頑張りました。
私たちの生きている今の世の中は、声を上げた人々、行動した人々のお陰で少しずつ改善されてきました。
当事者の血と汗と涙と、様々な犠牲によって。
よく声を上げよう
行動しよう
勇気を持とう
と言う人がいる。
「言うは易し」
本当に声を上げること、勇気を持って行動することが、どんなに大変なことか。
想像した範囲では決してわからないのです。
実名が出てしまうこと。
時間と労力、何より精神的負担の大きさ。
どれをとっても
『ああ、こんなに大変なら、誰も声を上げない。上げられないよ』
そう痛感しました。
私たちのケースより更に事が重い場合はなおさらです。
娘は気丈に対応していました。
でも、再現の時にわーと泣き出したらしく、自身がびっくりしていました。
大丈夫と思っていても、深い潜在意識の部分は、決して大丈夫ではないのです。
森喜朗氏の発言が騒がれていました。老害という意見もありました。
犯人は2人とも30代くらいの若い男でした。
実際に痴漢、盗撮、強姦などするような人物は、女性を人として尊重していないばかりではありません。危害を加えるのです。
女性の心身を傷つける男性は、若者から老年まで許されるべきではないと思います。
逆も然り。
男性、女性ともに、人として相手を尊重することが大切なのであり、そういう人間性が問われる時代なのだと思います。
裁判するかどうかという時、弁護士さんに言われました。
「法廷の場面は一般の人はテレビドラマで観るくらいでしょう。実際にあの場所に立つというのは、身がすくみますよ。特に刑事裁判の場合は。」
裁判を終えて、裁判所を出ました。
『これでもう、警察庁にも検察庁にも裁判所にも行かなくて良いんだ…』
帰りに日比谷公園の“松本楼”で娘と二人で食べたカレーの味を忘れることはないと思います。